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    なにかを書くとして、考えたところ、信仰について書こうと思う。わたしは数理の研究を20年余り続けた40歳の男である。27歳のクリスマスにプロテスタントの教会で受洗した。39歳の時、16歳のとき解こうと決めた問題に証明の解を出すことができ、その正しさは公にしていないが、わたし自身では満足を得て、以来、喜びに満ちた毎日を送っている。

    わたしはこのような文体で書く人なので、読みにくい人もいると思うし、反対に、読むのが面白い人もいるかもしれないから、この文体で書いていこうと思う。日本語らしくないと言えばそうだし、日本語について考えることで新しい証明までたどり着いたともいえる。わたし自身では、わかりやすい文だとは思うが、内容をまねするのは簡単でないと思うから、役立つ文章にはならないと思う。

    40歳になり、残りの人生でなにをしようか考え、なにもしようとしないことに決めた。これは信仰を生きることでもある。というには説明がいると思う。なにしろ、なにかすることやがんばること活動することがよしとされる社会なので、なにもしようと思わないことは変なことだと思われて当たり前だからだ。でも、なにもしようとしないからこそ、存分に受けられ、ゆえにこのように書き与えることができる。わたしはなにもしないから、なんでも書こうと思えるし、書けるし、懐がゆるすときはものを渡すこともできる。

    わたしはこのような生き方で残りの人生を生きようと決めた。よって、数理をすて、中身の濃い時間を送ろうと思う。なぜ濃いかといえば、常に空にするからで、受けるほど空になるので、満たされ、自由なのだ。満たされる分、濃いと感じるのは、買い物などと同じであるが、神の愛で満たされるのが信仰生活である。この部録は信仰を勧めるものとなるが、牧師の語りなどと異なるのは、わたしがこのような文章を書く人だからで、このような内容となる。楽しむ人には楽しめるものになっていたらさいわいである。