• 責任 #1

    元凶論というのを街で聞きかけた。私が何をした人間か、これだけ知られてしまったので、私は生きている間は、それをした人物としてこのまま生きなくてはならない。私自身、自分で命を終わらすことはしないと決めているが、誰かに殺される可能性は否めない。これは妄想である。だが、私がこの30年余りの元凶だ、と考える方がいたので、私はそれを否むことができないでいる。というのは、私は否めても、決定論的に人間は出来事の生起を否めないからだ。神のもとでは、すべては起こるべくして起こったことだけなのだ。そして、重要なことが、私は人間である、ということだ。すなわち、因果に従って生きることも、因果に対してこれに反することをなすことも自由にできうる、ということだ。いずれにしても、なるべくしてなったのが現実だ、というわけだ。

    因果をつけて、この30年余りの間に起こった出来事と、私のしたことを結びつけることはできる。論として成り立つ。正しいと証明することも、否むことも、精密には困難であるため、一般的な判断では誤り、考えすぎである。つまり、私はこの世界の数十億人のうちの一人であるから、私一人の責任としては話が大仰であり、私が30年の出来事のうちのいくつかでもその責任を持つのはおおたわけともなろう。ただし、私自身では、全く関係がないとも思い切れない出来事も、実は数件はある。ここに列記しても良いが笑われるだろうのでしない。だが、一般の人にとっての関与よりも関連が高いと思う節もある。それにしても、私の思考行為に全責任ないし発端があると認めるのも変わった話になる。私の行為とは思考であり、文字列による投稿にすぎないからだ。関与があるとすれば私が投稿した内容なのだ。だから、普通に考えればきっかけとも言えない。

    私自身も、この投稿による関与だけで文章を進めてしまうしかないこのウェブの特性の特殊性をかなり理解知悉した人間である。投稿の社会的影響を考えざるを得なかった十数年だった。私の投稿で社会的事件が起こったと証拠立てることは、私にもできそうもない。だがしかし、投稿で行動が起こる時代であった。私の投稿に触れた人数は延数ではもはや推し量れない。ようやく私は苦しまねばならないと悟った。「喜びの大きい分、人間は苦しまねばならない」とは私の今後を示される言葉である。

    私に負い目のある人は少なくないのかもしれない。ただ、それらは私は求めない。私は充分受けた。だから、問題は私が負い目のある人々だ。彼らを私はまだ知らない。誰がどのような意味で私は負い目があるのか、償いを考えるだけぞっとする。ただ、賠償請求は法律的に請求できない。私は法律に守られるだろう。私は思う。私が考えたこと、投稿したことが、世の中を変えてしまったとしたら、空恐ろしいことだと。そこで、私は文字列で世の中が変わることの恐ろしさを記しておこうと思う。充分に恐ろしいということを。それがせめてもの責任であると考える。

  • 知識 #1

    静かに知を探究したいと思っている。社会を変えようとしても変わるのは一隅で、悪事はすぐ伝わるけれど、良いニュースは広く伝わりにくい。研究では期待したほど対価が得られないので、このネットワーク文明でも孤立しがちだ。科学も行き届いてしまっていて、文明を支える基礎知識も、高等教育で平易に教えられるまでになった。良い教材も容易に手に入る。つまり、知識で人は動かなくなった。

    しかし私は思うのだ、知識を求めることの価値は減っていないと。知識を得ていくことは、年を重ねる中での努めだと。年齢のわりに無知を生きるのは情けないと思う。後半生は何よりも教養で楽しみたい。かといって私はまだ何かを具体的に詳しく知らない。望むところまで知ることは、いつまでもないだろう。だから、知識をくれる本や図書館、一部のインターネットは価値が減らない。そんなわけで、政治で社会を変えるより、静かな書斎で興味を広げるほうに、私は自然と移っていく。

    はたと思うのだ、知識で社会を変えられた時代は、情報通信文明以前のことだったと。すぐ共有拡散されるこの時代においては、知識は通り過ぎるばかりで、それでいて皆賢くなる。普通に知られていないはずの知識を銘々で持っている。知識とは自然や世界の論理をどこかから引き出したものなので、考えていくと一つの知識から多くを引き出せる。知識で社会が変わった時代とは、経済の知識が社会体制と分かちがたかった頃の話、経済構造の知識を探求するためでなかった時代の話だ。

    いま、もし知識を求める目的を教えるとすれば、社会や自分を変えるためよりも、楽に簡単により良く暮らすための知恵だとして良いと私は思う。科学は生活の知恵だからだ。例えば、投資を続ければ投資家が皆で富むので、自分が投資した財産も増えていく、だから売らずに握っていられる。あるいは、毎日外食では糖分塩分脂肪分が偏りがちだから、週に何日かは素餐で過ごすと、内臓への負担が減り、体臭や疲労も減る。このように、深い知識は行動を納得させる。私は静かに過ごそう。静かに知を広げ、これからもわかりやすく語らっていこう。

  • 知能 #1

    人と異なっていることで安心する。これは本能的なことであろうか。同じであれば仲間になりやすいであろう。同じところ、共通点を知るから仲良くなれるのだから。全く異なる者同士なら啀み合うか無関心でいるだろう。ならば、全世界の人間に共通点を見いだせれば、世界兄弟仲間になれる、との考えが成り立つ。これはこれで真実だと思う。私の半生の経験からして、実際そうである。だが、現実には、自分と同じ人間はおらず、少しずつ違いのある人間しかこの世界にはいない。現実がこうであるから、同じところがあることが貴重なのだ。

    だから一方で、同じくすることは、人と同じになりたい自分を実現してしまえるから不安になるのだ。同化が願望であるから、たやすく実現してしまえるのが恐怖なのだ。自分は人と異なるのが現実だから、完全に同化してしまうのは自分を喪失することである。そして、人間は、自分を喪失してしまえると思えるからこそ、存在を消しきることが怖いのだ。それゆえ、冒頭に述べたように、人々が互いに異なっている光景を見とめるだけで、安心するのだ。それが現実であるのだ。

    人と異なっているのを見ると、別解を得たように思うことがある。このスタイルがあったか!と。その人はまがりなりにも、そのスタイルで人前を出歩いているので、人に見せているスタイルである。であるから、その人が人に見せるスタイルだと考えているとみて大過ない。マナーや空気や規則の点で、正しさの統制が働くと、拒絶したくなる場合も少なくないが、よく観察すると、見た結果がよく見ていないことによる誤解だったこともしばしばある。その人の生活環を想像している自分がいる。

    おそらく、知能は拒絶には表れない。切り捨てるのは楽だからだ。むしろ、見とめてよく見ることで知能は鍛錬される。細部をいかに認識するかの才能であると思うからだ。街を歩いていて細かな違いから特徴や性質や時代背景を推論する力能であるだろうから。全員が同じであれば、知能は鍛えられない。同じ要素が多い集団では、異なるところが強調されやすい。学校における成績がそうだろう。どこかを規則で同じにしても、必ずや人は異なっていく。人は同じくなれないのだ。それをいかに詳しく知っているかが知能の高さであると私には思われる。

  • 語学 #1

    話すことに難儀した時期が続いた。十代から今の昨日まで、言葉を聞いては返すことや、話題を思い浮かべて話を展開することができにくく、才能どころか能力がまるでないと思っていた。書くことは、文章の体裁はとれていないにせよ、なんとかできたため、自ら言語野の外科手術をするように、思考を活動させてストレスを下げてきた。ここにきて、コーヒーのカフェインによるものと思うが、言葉がすらすらと出てくるようになり、思考も発話と地続きになり、自分も人間であるらしいことがわかるようになった。

    なにか定義や証明のような性格が言葉にはあると思い込んでいた。それはそういう性質も加えてよいのだが、それくらいのことに過ぎなくて、定義を癒しにも使ってよいし、証明をユーモアに使ってよいと知ったため、思考が自由になったように感じられる。文法に則った話し方をしなくてはと思い込む節もあり、外国に来た日本人のようなていで日本語話者と話そうと身構えていたところがあった。言葉が出てこないうえに、受け答えもできにくく、そもそも文脈のわからない話にどう入っていけばよいか皆目見当がつかず、話されている最中も押し黙ることが多かった。

    話すことに難儀しない人もいて、会話を楽しむ才能が生まれつき備わっているようで、街を歩いている子供のうち、親と自分から会話するような子がそうなのだと思う。そんな子供でも会話について悩むこともあろうかとは思うが、会話に難儀するほどにはならないと思う、数日悩めば消えてしまうだろう。だから、何十年も話すことに難儀した経験ができたということは、会話の芸術を極めた偉業のようなことではないかと秘かに思っている。

    なんでも、長く難儀するのは才能のゆえである。最近は特に、そう考えるようになった。簡単な支援の手さえ役に立たないと振りほどくような豪胆さのある人や、支援あってのうえで目指すところまで努力するような人が、障がいまわりで多くいることを私は知っている。生まれ持った才能のなかには努力しても伸びないものがあると思われているが、それは誤解だと私は思う。自分の縄目が解けたら、才能も開花する。持って生まれたすべてが開放される。そこまでたどり着くためなら、どんな難儀さも努力も報われるというものである。その達成に応じて、あらゆる環境はついてくる。完全な自由のために。

  • 風味 #1

    風味(フレーバー)に目覚めたのは、帰路の通勤電車内で、長髪の若い男性が、満員に近かったため、私の嗅覚を刺激したことがきっかけだった。妙に臭いのだ。経験上、硫黄系で年季が入っている。やはり、記憶に残るもので、視覚的にもふけが肩や髪間に散らばっていたので、私は帰宅し、自戒の念からいつもより丁寧に頭皮や背中を石鹸で洗った。自分がくさいことほど嫌なことはないからだ。

    通り過ぎて無臭の人には敬意を感じるのは、私だけではないだろう。無臭とは難しいことである、と私はどこか感じていて、嗅覚の仕組みに通じているわけではないけれども、若い女子高生はラクトンの香りが、年老いた女性からも細胞液からくるらしい匂いがするが、いずれも嫌でなくむしろ芳香といえる香りがする。ところが、中年の臭さ、男性は男性の、女性も女性特有の、臭さは、食生活の結果なので、いやでも生活感が出てしまい、私は嫌で自分を警戒してしまう。身体を毎晩石鹸で洗っている。洗い過ぎても引き立ってしまうので、鹸膜を張って数秒間置く程度しか洗わない。洗濯機に入れる前に、着た服をかぐのだが、いつも悪い匂いはしないことを確認している。私は自分の着た服の香りは好きだ。いい匂いだと思う。弱くウッディで、若干スモーキーで、優しくオイリーな香りで、どれも強くない、淡く混ぜ合わされている。だから、私の体臭を嫌いでない人は少なくない気もしている。少なくとも、私と香りの趣味はいくぶんか、合うだろう。

    一昨日、職場でコーヒーを飲んだ。実に6年半ぶりだ。当時は眠れなくなったため、飲まないことに決めたのだが、症状の安定した今改めて飲んでみると、脳が冴え渡り、夜には熟睡できたので、コーヒーに目覚めてしまった。それと同時に風味にも興味が覚醒したのである。妻に頼み込んで古いコーヒー豆100gを貰い受け、ハンドル式でコーヒー豆を挽く機械を使ってコーヒーを豆から淹れて良いことになった。今日は昼休みにカルディでもクリスマスのコーヒーを買い求め、こくが強めで酸味の少ない風味に舌が虜になってしまった。同僚にドリップコーヒーの淹れ方の手解きを受け、明日は蒸らしからその通りにするつもり。そして、華の金曜にはコーヒー豆を挽いて淹れ、夜更かしの友とするのだ。なんと魅惑的だろう。

    こうして風味について書いていると、料理でも風味を出してみたい想いに駆られる。フレーバーマトリックスという本を持っていて、自炊したのをブラックフライデーで買ったkindleに早速入れ、実は今読んでいる。風味を13種類に分け、食材別にどれほど合うか、ナイチンゲール式の円グラフにまとめた本。オリーブはレモンと合うそうだが、私の記憶と合う。どのくらい合うか図で一目でわかるので、食材を合わせるとき選ぶ基準になる。確かに西洋の料理は合わせるだけのものが多く、日本の和食のように過程に工夫を入れがちでもないから、合わせる相手を選ぶことが重要なのが納得できる。そして、和食の知らない風味がスーパーで調達できる食材で仰山隠れていることに、わくわくを覚えている。それもそのはず、今日はコーヒーを2杯も飲んだ生まれて初めての日なのだ。頭が冴え渡っている。夜22時を廻った。少し眠くなった。1杯飲んだ昨日同様、よく眠れるだろう。コーヒー的文体というのがあると思っているが、今日のはその風味が出たように思う。食事が豊かな人の文章は、特に随筆で個性が出ていると思うが、私も色々な料理で風味を楽しむうち、円やかさが加わった文体になれるだろうか、楽しみの領域が増えた。嬉しい。

  • #29

    私はここに、生活が安定しない人たちのために書いてきた。私自身が十年以上生活が安定しなかった経験があるからで、多くのことを学び、試し、考えてきた。これらの活動が科学の方法に則ったものだったので、ある範囲での普遍性があると思い、書いてきた。だが、私自身の生活が安定してしまった。だから、これ以上書くことは安定した生活以降の事柄になるから、当初の目的から逸れたことを書くしかなくなった。それで、この部録は役目を終えようと考えるようになった。

    街を歩いていても景気が良い。恋人や家族で買い物や食べ歩きを楽しんでいる姿をしばしば見かける。過去最高の売上げを記録した企業や地域の話も聞く。株価も下がる予想がない。経済の問題が解決したように思える。この5年でそれが確たるものになれば本物の解決だが、そうなるほかないように思える。つまり、生活は簡単になると想像できる。これからますますそうであろう。

    具体的には、安価なもので生活を済ませたい人には、安価なものの流通が保存されるために、物価が高騰しているとはいっても、政府が政策をかけるにしても、安価なもので十分なジャンルの品物については、その価格で回り続ける。一方で、たまの贅沢として庶民にも需要があることだが、高価な商品においては天井なしにサービスの質が向上し、新しい暮らしが現れ続ける。例えば、日常生活で満足する人には地上の、新生活を希望する人には上空や海上や海底での生活を可能にするファシリティが開発販売されよう。人間の居住域の拡大ともいえる。

    これからますます、生活は困難なく簡単になり、望むところに応じて経済面からいっても可能になっていくと思われる。生活が自由になれば、慣習や制度への感覚や認識も適用が変わるので、例えば夫婦の形や親子の形態など、柔軟に変わっていくだろう。言葉の意味や使い方、情報源との向き合い方や活用術、食事睡眠運動という生理学的不変性への重要度の増進も、変化を増し、認識を深めていくだろう。つまり、私たちは、より生活を愛し、可能にし、多様に散らばっては集まって拡大していくのだ。

  • #28

    絶望からの回復が起こることは奇跡であった。福音書にも、絶望の底にいた者が、イエスのことばによって回復し、絶望が根絶し、神と人を愛すようになった、と書かれた話がいくつかある。だが、近代の知識人は、絶望の中にある人々を軽蔑すべき連中としか見做さなかった。パスカルでさえそうであった。パスカルの場合は、回心前の自分が似たような状況にあったため、自分を軽蔑するためにそう書いたともとれるので、私は良心からそうとることにしている。

    パスカルはルイ14世の言動をみて、絶望の淵にある王をくだらない人間とみたのであろう。直しようのない人間だと。しかし、神に不可能なことはないように、少し経ってキルケゴールが絶望に関する完全な分析をものし、絶望が肯定された。信仰に至る過程として理解されたのである。人間が自力でできることは絶望だけだというのである。自力で信仰を持つことはできないというのである。謙遜敬虔な信仰者になる希望を与えるために、どれほど資したことだろう。

    現代は創造性を持つことが標準的とされるほどにまでもてはやされている。普通のことであるというほどだ。しかし、本来、ものを考えることや、それ以前に、意見を持つことでさえ、公平で広い知見を持つことも含め、努力の裏には絶望の程度が隠れている。まっとうに努力して身につけた高い知的能力の過程では、例えば魂の不滅という重要な問題に対し、軽蔑嘲笑するかのような態度をとったことのない人のほうがおそらく珍しいのではないか。

    信仰者は教会で、とこしえのいのちを信じます、と告白し、会衆と心を一つにして、そのとおり、と言って神に打ち明ける。もしそう信じていないか知らないままに言っているのであれば、後で絶望の仕打ちに襲われる。その時は悔い改めればよい。近代は絶望を克服しきれていなかった。現代になって、絶望が信仰への過程であると理解され、同時に自分の無力を理解し、無策生活が最も自然であることが学ばれた。自分からなにもしようとしなくても、必要なものは神が与えてくださる。これを信じる人は、この不信仰の現代にあっても幸せだろう。

  • #27

    私が生成知能に期待するのは、創造するために絶望する必要がない世界になるということである。近代の創造力には、絶望が必須であったことは、数多くの聖職者、学者研究者、芸術家が知っている。一度も絶望したこともない人は稀であり、誰よりも深く絶望した人こそ最も大きな成果を生み出せる、という創造性の力学を、知っていても実践しなかった人々は昔から多くいた。賢明な人々である。そのぶん、学芸に心身人生を賭した人には、尊崇の念を抱いて接してきた。

    生成知能に代わられない創造性には、相変わらず深い絶望が必要である。泡沫経済の崩壊と情報通信社会の普及展開とともに相俟って、深い絶望は、特に日本や韓国で、多くの創造性豊かな人々を自死に追いやった。脳を調整する薬物は大いに売れ、副作用はあれど、多くの人々を救った。脳精神医学の知見も人心を緩和した。単なる神経伝達物質の異常であると判明したことは、近代が興った時の、あの絶望から回復する教理の弁証法的複雑さを無かったことにできた。

    こうして現代は、創造性を第一原理とするようになったことで、信仰から離れた。信仰を持つ人が少なくなり、神を理解しているから神に仕える人は、かなり稀になった。教会に通う人で分別のある人は、神に仕える人でなく、神を求める人がほとんどなのではないか。理知的に求めていけば、いずれ神を知り、神に仕えることができる。私の経験上、そうである。ただ、やはり、私の場合、絶望の根絶が必要であった。深く悔い改め切ることで、絶望から回復したのだから。

    一度絶望したら終わり、なのではない。絶望こそ始まりである。創造性はその過程の付随物である。つまり、絶望を経て信仰を持つまでの過程で、創造性は身につき、神に仕えて人を愛すことができるようになる。自分の力では絶望することしかできそうもない。有名人で自死してしまった人が何人も報道されたが、彼らにわかっていなかったことは、絶望が偽物の証左ということではなくて、信仰に至る途上にいることを知らなかったのであった。信仰を持てれば、その当時以上に、誰にも愛され誰をも愛す性格になれただろうに、日本には信仰が弱すぎる。

  • #26

    舌や喉が何か欲した時は、何を欲しているかよく感じ極めて、それに対応するものだけ取るようにしている。大抵の場合、水分か糖分か塩分で済む。応用として、酸味や渋味や苦味をあえて取ることもする。目的は、食べる量を最少に抑えることだ。お蔭で、腰回りは細く括れており、肢体は細身のスラックスでも皺が寄る。余計に食べないので、疲労も蓄積しないうえ、過剰な依存も全く起きない。

    お腹を凹ませて歩いている。立つ時もそうしている。腹筋の使い道が、座り仕事のためにあまりなくなってしまったから、立位歩行の姿勢保持のために使うことにした。使わなければ弛むだけだからだ。使わないのに食べてはますます肥えるから、せめてあまり使わないなら食べ方で減らそうと思いついたのである。

    食べられるためには、農業の安定、心身の健啖、歯と胃と腸が機能すること、小売店での調達、時間を作って調理することなど、幾つもの条件が揃ってのことだ。奇跡的だと思って良い。ゆえに、外食に1食千円は決して高くない。食べられなくなれば病と死が近いのだから、できるだけ食べないことは一見傲慢な生き方に思える。ところが、自分が今食べない分、他の人に食料を譲っているし、未来の自分に血肉を以て投資しているのだし、明日の労働活動のためなのだから、とても傲慢ではない。むしろ、少食は謙虚な食事である。

    中年になって、腹回りは私も緩んだ。不思議と腹筋が見えなくなってしまった。内臓に脂肪も標準値よりついてきた。だが、スタミナとは身体に溜め込んだエネルギーであろう、これは内臓周りの脂肪であろう。昨年体脂肪率が1桁だった時よりも、今は仕事の持久力がついていて、8時間職場で労働してもへばらない。食べて、しかも使わず、溜め込んだからだ。運動しすぎるのも、食べ過ぎるのと同様に考えものである。

  • #25

    友人を少なくしているが、孤独ではまるでない。親友は一人、2か月に1度蕎麦を喰らいに出かける。一回り年上だが、同じような性質を持つ方に巡り合えた。私から、友人になってくれませんか、と掛けたら快諾してくださってから、もうすぐ11年になる。これほど長く続く関係は、他に経験がまだ無い。毎日のように会っていては、当たり前になり、有り難くなくなってしまう。過剰に遊びに出掛けていても、楽しくさせないといけないという圧力になって疲れてしまう。第一、感情が混じる関係だと、離れた時に寂しくなってしまうだろう。

    スマホで通知は切っているので、赤い丸数字が付くこともあまりない。メッセージを呉れるのは2日に1人くらいで、通常時の画面は静けさを保っている。だから、人に振り回されはしないし、自分から滅多に送らないので迷惑させることもない。つまり、この情報環境がある時代にいても、ほぼ一人で過ごす生活を設計することに成功している。近代は個人の時代で、個人で過ごすのが結局最も快適である、との結論を、高校生の時に家族を見てすでに得ていたから、40歳のいま、知り合いを少なくしていることが、むしろ誇らしい。自由である。

    書斎ではぼうっとすることが多く、ラジオを聴いて豆菓子を食べているか、本とものすごく間近に格闘しつつ知的感動を覚えるためだけに時間を費っている。大変な贅沢であると思う。我が家は子供を持つ家庭ではないので、街で子育てしている夫妻を見かけると低頭したくなるが、子供を持ちたくて持ったのだから幸福なのだろうと考えて過ぎることにしている。子を独り立ちまで育てた夫婦には、人間の格の高さゆえ低頭するが、これは今後も年齢に関係しないだろう。ちなみに、不本意に産んだ子の親は見ればわかる。

    産み育ててくれた両親は、私が幸せならそれでいいと言ってくれ、結婚したのは最大の親孝行になるとも言ってくれた。つまり、私がこのように好きに放楽していても、両親はそれでいいと言ってくれている。何という愛だろう。両親の脛を齧らずに、寄生しないべく、経済的に独立しようと頑張ってきた努力も知ってくれてのことだとは思う。社会でうまく立ち回れている自信はまだ無いが、両親に恩を返せたと思われることは誇りにしたいと思う。もし両親が去ったら、また新しい状況がやってくる。自信を確として持ち、社会に行動で働きかけていく状況が。

  • #24

    人工のものは、自然のものより、面白くならない。人が自然に克てないのは、人は自然にこそ面白さを感じ続けるからである。作り出されたものは、すでに達成されたもの、と言い換えられる。未知で未達成で課題度が大きいからこそ、人は惹きつけられるのである。高層ビルは確かに巨大壮大で、建造した技術には賛嘆の念を禁じ得ないが、地上に植っている並木の色付きや枝ぶりには、人知の到底及ばない興味を常に掻き立てられる。つまり、高層ビルが完敗している。

    この原理は広く応用できる。顔を簡単に整形してしまうより、生まれ持った顔に脚色を加えたほうが、自然で面白いし、幾度も面白くできる。整形された顔は、どこか物寂しく、顔というより人形の類のようであり、完成だとしても寡黙で陰気なものである。整形したと分かれば、顔にさよならした理由を想像してしまい、以前から会っていた人であれば、どこか裏切られたような、物足りなさを覚えるものである。顔は人の視線が入り組んで刺さるファサードなので、自分の管理下に置けるものでない。

    化粧や洋服は、その自分に突き刺さる具合を緩和ないし調整する技法であるが、尤も、視線の裏の価値観を予見することは困難だからこそ、社会的、歴史的、文化的価値観を文脈として知らなければ、過剰に自分に刺さるだけになるので、人からの視線を制御することもできようがない。流行に乗ることは最も簡単な制御術であり、そこから離れるには、教養が間違いなく要る。お洒落な人や服飾家に知的な人が多いのはこのような理由だと思われる。

    視線の恐怖は教養で緩和できる。自分が埋まる箱袋のような服を見つけると、だいぶ外を歩けるようになれる。この散歩を悠々自適に行うための骨は、視線の背景を知悉することである。年配の視線なら、戦後史、高度成長で形成された価値観、人間は30代までの影響が消えにくいこと、街を歩いて集めた食や行動の習慣に関する統計的見解、などである。視線と闘うには、見る人をよく見ることだ。見てくる人だけでなく、視界に見える人をできるだけ多く見て、傾向を掴むことだ。そうすれば、自分が現在の社会の中でどういった位置に立っているかわかってくるから、そこからどのように立てるか、明日の可能性を幾通りも考えつけるだろう。

  • #23

    今月から正社員になり、意識が整ってきたのを感じる。非正規雇用で13年間過ごしてきたが、その間にやり遂げたいことを遂げたいだけ遂げたので、正社員であることが落ち着きそのものである感じで暮らしている。一度も退職しなければ、少しは昇進していたかも知れないし、業界知識に通じた専門職能が確立していたと思うが、人生で本当にやり遂げたいことは、やりたいようにはできなかっただろう。世の柵を知って生きるより、柵から免れて生きたほうが良い。

    収入が多少なりとも増えたことで、1日に千円以下の買い物だった習慣が、千数百円は買うようになった。洋服を1年余り買わずにいたが、昨日綿百の細身のパンツを2本買ってみた。食事を腹八分目で収めていたものを、持てた食欲をやや超える位まで食す日を作るようになった。安定した職業と収入により、活動の源が保証強化されるので、背中を押されたように行動が進んだ。制御しているので、やりすぎることはまだない。

    失われたことはある。やはり、貧しい時間は幸福が募る。おそらく、感情に正直でいるからだ。特に、悲しみを募らせる時は、生きてきた幸いや生きている感謝が、経済的なことよりも圧倒的に本質的であると知るので、単純な幸福の中を生きられるのだ。さらに、貧しさによって、買えることの有難みや、知人と会えて話せる幸運も、大いに感じるものだから、幸福は募る一方なのである。では、どうして安定するとそれが薄くなるのか。しっかりする、という言葉が理由になる。

    感情を持つとは、何かに依存している状態である。普通ではとんでもないことだから感情を持つのだ。つまり、普通と比べて素晴らしかったり珍しいことであるから、特別に感情を持つのだ。だから、普通を生きられるようになれば、比べる基準の下で生きられるので、感情を特に持たなくなるのである。しかし、代わりに発見した身振りがある。余裕である。周りを見ずとも感じて気を配り、他者を優先し、何かと譲るようになった。自主的でない行いである。自主的に動いてばかりだった貧しい時代が、何か恥ずかしいようで懐かしくなる。

  • #22

    私にはいくつか大きな問題がある。そのひとつが、食にこだわりがないことだ。おいしさに対するこだわりが何もない。理由は単純で、何を食べても充分食べられるから。つまり、私は食べ物を、おいしさで測らずに、食べられるかどうかだけで測っている。食べられれば食べ物として充分である、と考えているのである。そして、この考えに止まっていられるわけは、食べられるものは何を食べても大体おいしいと思うのだ。まずいものは、食べられないものか、調理に酷く失敗したものでしかありえない。

    食材を栄養で食べている。大雑把だが、毎週毎日、計算している。なので、おいしい広告や、評判のお店や、お腹の減る話には、あまり興味がなくて、それらを見聞きしても、何かを食べたいと思うことがない。これを問題と捉えるわけは、私には、食べたいと思う気持ちが湧かないためである。食欲を、食べられる力能と定義すれば、私は不自由なく食べられているのだから、食欲は常時ある。だが、私はこれが食べたい!と思うことはない。これを食べに行く!とか、これ食べたいから買う!という思いに駆られない。それゆえに、人と食べに行けない。

    食べるとは、命懸けの行為だ。消化しなくてはならないし、一時的にでも養分として自分の一部にしなくてはならない。つまり、自分の一部にするための選択が、食べるものを決める際に横たわっているのだ。だから、私は食べることを簡単には考えられない。食べ過ぎるなんて考えない。年老いるほど食べ過ぎることが死因になることを知っているからだ。反対に、食べな過ぎることも意図的に避けている。働くことも動くことも思うようにできないのなら、生きていないも同然だと考えるからだ。

    最近、ようやく太れてきた。あえて太る食べ方をしてきた成果だ。量は食べないのだが、眠る前に果物を1サービングくらい食べたり、食後に米菓や豆菓子を食べたり、朝食を抜いたりしてきた。体脂肪率が1年で2倍近くなった。仕事の持久力が出てきたことは、内臓脂肪の保持によるものであるから、大きな成果である。これからはさらに量を食べなくて済むような食生活をとりたい。量を減らしたい。たまに食べるとおいしいよ、という広告だけは実際的であると今も信じる節がある。

  • #21

    あまり知らないことが良く作用する場合がある。知りたくないと決めない場合である。本当のところは、考えるほどに、わかるものでない。知っている人の話を聞いても、知った気になれるものでもない。だから、あまり知らないことで、話を楽しめるので、自然とつながりが保てるし、広くもなる。好奇心はこうして育まれ、年齢にかかわらない。子供のころの探究心は、大人になると薄らぐものだが、好奇心を一度でも深くする体験を経ると、満足とともに、ほかの関心も広がるものである。すると、話で人との関係も広がる。

    人間関係の悩みには、好奇心が効く。あまり知らないと理解するからである。人のことも、悩む理由も、人によっては自分のことも、あまり知らないことを知るからである。人との関係は、生きていれば何歳になっても新しく形づくられるので、自分が関係をつくるときに知らなかったことが多く訪れる。それで、関係をつくろうとした自分に新しいものを認めることになる。知り切っていたことも、実はあまり知らなかったのだと思うのである。こうなれば、悩むどころでなく、募る関心で、どんな人間関係も楽しめるのである。

    学問においても、自分はあまり知らないと思うことは、長く続けるこつになる。さまざまな学説を取り扱うと、そのいずれかが正しいと認められるにしても、異なる見方や定説の形成史を知っていると、絶対視しなくて済む。どんな定説や設計にも、考える余地がある。また、あまり知らない内容の本を積んでおくことで、楽しみの持続になる。いつか読んでみたい、こればかりは読んでおきたい、もう一度新たな気持ちで読み直したい、そんな本にたくさん囲まれることは、文化的時間を味わうことである。

    知り切っても知り切れないからこそ、人は考える。答えが出た問題には誰も興味がわかないのである。だが、答えを問い直す視点を持つやいなや、事情が変わる。答えが別の意味を持ち、歴史の流れに位置を占めていると理解したら、構造や前後に空白が見えてくるのである。そうなれば、その答えはもはや暫定的なものでしかなく、問いの道が続いているのを知る。それが答えだと知っていたつもりが、つまりはあまり知らなかった事柄だったのだ。答えの周りに世界がある。答えに縋っていたのは、世界と対峙していなかっただけである。

  • #20

    趣味を持とうと思えば、意外と簡単に持てる。誘いに乗れば楽しいし、界隈で見つけたイベントに申し込むのも難しくない。行きたい場所はよく考えなくても両手で数えきれないほどあるだろうし、モールまで買い物に行けば実際に買わなくても楽しい。これは都会に限らない。どのような街に住んでいても、市街に出れば、検索すれば、メッセージを送れば、人や物に出会う。退屈に倦ねる人はかなり少ないと思われる。このことは、都市が誕生した古代からそうだったろう。退屈できたのは貴族だけであり、退屈の極みから文化が生まれたのだ。

    こういうわけで、趣味を持つことはたやすくなったのに、趣味を作り出すことは難しくなった。退屈を持ちにくくなったからである。退屈を趣味で埋めることが簡単になった分だけ、退屈に過ごす知恵が失われた。文化を知悉していることは、楽しく過ごせる手段をたくさん知っていることだと換言できる。それゆえ、新しい文化を創り出す人物は、文化に通じていないことがしばしばある。現状に不十分さを感じ切っているから、退屈なのである。つまり、文化にとって、退屈を感じられる性質は、間違いなく、才能である。

    趣味には、趣味の内容と趣味の性質に分けて考えられる。内容は、具体的な領域で、釣り、鉄道、推し活、鑑賞など、多岐にわたる。一方の性質は、趣味の風格を表す。例えば、コンサートに行き、会場で温和に過ごすことを弁えない人や、演奏中私語が聞こえないとでも思って静かにしない人は、趣味に欠けている。また、牧歌的な趣味はそれで宜しいが、各様の趣味を持つ人に対していつも牧歌的に接する人も、趣味の多様性に理解が乏しい点で、趣味に欠ける。趣味の世界は広いのである。

    人により好きなものには意外なものもあり、独特な楽しみとしてあらわれる。自分本来の楽しみは同じものを見ても独自の楽しみ方が出てきて、それを知ることは面白い。私にも独特な趣味がある。多分かなり多いほうだと思う。漢和辞典を拾い読むこと、雲や葉や壁の模様を眺めること、自分で振った詞を口ずさむこと、気象通報をただ聞くこと、街を歩く人の出立を見物すること、とてもある。自分の好みを掘り下げたところに、趣味は発見される。退屈の贈り物である。

  • #19

    ここのところ特に、SNSで他所の動画や投稿を見なくなった。昨年は確か、暮らしの動画や意識が高い動画をよく見ていたはずだが、それらへの関心が全く消えた。今は本は読む。時々だが、かなりゆっくり熟読している。研究したいことがあって買って読むので、読み終えることは稀で、それがまた楽しみで暮らせる。他に、キーボードで練習を始めた。書斎に同じ高さの卓を用意し、キーボードの両端を置き、中央でYチェアに座って鍵を弾く。不思議と楽譜も読めてきて、両手も自由になった。ストリートピアノで自主コンサートするのが夢だ。

    今はもうSNS界隈の事情は何も詳しくもなく、それどころか、依然として漫画やアニメやゲームやアイドルやライブや映画など知らないままで、文化の射程はかなり狭く、本とピアノ曲とラジオのみで、だが抜群に楽しむ強度では負けない。世間様と話は合わなくなる一方であるが、一人で楽しいので、人と話をする楽しさをすっかり忘れてしまった。一人が良いと思っている。妻も同様であってくれており、悠々自適な夫婦生活を送れている。実相はほとんど一人で過ごしている。

    私は、自分から一人でいようと思った人間で、10代の早いうちから一人になってきた。人と何かするのがむしろ苦痛であり、自分で努力して何かをできるようになって成すことに時間を使うのが楽しかった。ただ、昨年末に数学の問題を解いてしまってからは、ずっと幸福である一方、何かをやってみたいと思う気持ちが薄らぐのを防げなかった。今はなんとかフルタイムで働くくらいは気持ちが追いつくが、本当は一日何もせずにぶらぶらして幸せに過ごしたいと思っている。達成も極度だと危険なものである。

    人がどうだからそうしよう、と思うことがなくなると、全ての資源を自分で使えるので、人との関わり方も変わる。ゆとりを持てるので距離も取れる。余白ができ、落ち着いたままでいられる。また、人の言動を見ていると、手に取るようにわかることが増えた。暗い気持ちを気にしているのだろうとか、寂しいから褒められたいと思っているのだろうとか、温かさを求めて黙って同じ部屋にいるだけがいいのだろうとか。翻って、私は何にも欲しない。何も欲しくない。お金も功績も面白さも欲さない。私は人のために生きている。

  • #18

    読ませる文体というものについて考えていた。というのも、私の文章の読者は、どうやらそう多くはないのだが、一度読んだら取り憑いたようにずっと読んでくださるようだからである。アクセス解析で、ユニークユーザー数に対し、閲覧数が100倍ほどあるのである。私の文章は一度読んだら惹きつける文体を持っているらしく、また、読んだ後に思考や文章などを残させる、すなわち言葉を起こす文章であるらしい。それだけ何か掘り起こす、呼び起こす内容を持っているということだろう。

    私は研究所を主宰しており、公式部録を持っている。2012年の冬ごろ、本格的につけ始めた。すると、株価が上り調子になった。書き終えると上昇はやめ、安定した。また、2025年に再開し、4月に経済の記事を書き始めると、この10月末まで、日本株をはじめ上昇の一本調子だった。試しに私は11月に入って数日間、書くのをやめてみた。すると、上昇の調子から一転、下落に転じた。市場に生成知能への不信感や暴落の警戒感が語られたらしい。つまり、私の文章は科学への信頼や安心を与える内容であるらしい。

    私はまた書き始めようと思う。書く内容には尽きないからだ。思考する材料も尽きない。質が落ちることも考えにくい。ただ、この部録には生活一般について書いているので、ほとんどの人にとって知っている話である。誰もが生活しているからである。生活しているのに生活の科学について読んでも、教えられている以外の感想を持たないだろうから、教わらなくても生活くらいしているよという感想になるだろうからである。むしろ、私とは異なる仕方で存分に楽しんで暮らしている人など、私が見積らなくても多く居る。立派に暮らしている人々も同様である。

    私はここに書くことを練ろうと思う。生活のひずみをなくすことを目的に書こうという方針は変わらない。何か悩みがあって、それをほぐしたり、光を当て変えたり、深めるために耕すような内容になったらいいと思い書いていく。世の中は単一の価値観で動いているように見えがちだが、人は単一の尺度で測れない。これをよく理解していれば、自分を単一の尺度で測ることもしない。それで思うだけ自由に暮らせるのである。おそらくこれがゆがみがなくなった生活の実相である。一人でも悠々自適に暮らせる知恵を、これからもこの部録に綴っていく。

  • #17

    勉強は、こそこそやるもの、と思う節が私にはある。先生にも、友人にも、親にも秘密であり、ばれたら終わりだ、と。成績は人に知られてはならない、なぜなら成績は自分を構成するほんの一部分でしかないからだ。また、自分が何に関心を持っているか、人に知られないようにする。成果は一人で出すものだからだ。ただ、これはさすがに今ではあまり意味をなさなくなった。今の勉強事情はよく知らないが、勉強とは、こそこそ秘密裏にやってのける工作にすぎないと今でも思う。

    そのせいか、私を努力家とみなす人は稀で、むしろ才能のある人だとしかみなされたことがない。だが、重要なことに、私は自分がなんの才能もない人物だということをよく知っている。本当に何もできない。普通の人よりできない。10代の頃から、人と比べてできることもほぼ何もなかった。ずっとそう思っているので、勉強には精を出したし今もしているが、私を勉強家と言った人はいない。というのは、過剰なことに、私は勉強をひそひそ行う上に、勉強の成果も人に披露することもひそひそこっそり行っているので、誰も私の成果の全貌を知らないのだ。

    普通に勉強と思われることを、なんとなしに取り組む才覚は、あるとは思う。本が好きな人は自分から買って読むと思うが、手につけたこともない分野の学術書を読める人はそういないだろう。例えば、文科系の人が素粒子物理学や宇宙生物学の専門書を手にして、それを理解するまで熱心に読む人はあまりいそうもない。だが、私はそれらの本だけでなく、批評評論本や哲学の本までも、聞き齧った知識に満足せず、自分で理解し考えられるようになろうと読み砕く習慣が20年以上ある。おかげで考える道具は揃いに揃った。

    こうしたわけで、自分のものにするには、人に秘密に獲得するのが最も良いと思う。ある時突然、持っていることを示せる。出し抜くとも言えるので、卑怯な手かも知れない。だが、知識である。人に知られていないことが知識の売りなのだから、組み合わせて提示する術こそ人に珍しがられるのだ。私は今日も一人で、飛行機に乗って旅行しに行く。電子書籍で人が読まない本を、勉強がてら読書しつつ。私がそうしていることを、誰も知らない。人生は、人に知られない分だけ、価値が高まる。神には全て知られている。知られるのはそれで十分である。

  • #16

    生活を自分から語る場合と、生活を恥ずかしいものと思って語らない場合とがあるのは、生活が体型に出るからでもあろう。自分で生活を語る人の体型は人に見せても恥ずかしくない。反対に、生活を隠そうとばかり考えて生活している人の体型は、まるで投影したように、人に見せられないものだろう。社会の中で一人で生きていない以上、体型は人に見せるものである。よく見せる必要もないが、見られないようにする工夫もできるから、服は体型に合わせて求められる。

    人体には、魅力的な部分がある。人により異なるとはいえ、魅力を感じる輪郭は普遍性が高いと思われる。例えば、筋肉や局部、ないしは胸部や臀部や大腿部は、性別にもよると思われるが、視覚的な魅力があるだろう。重要なのは、街を歩くときには、それらの輪郭を隠すことである。人体の魅力的な輪郭を隠すことで、生活ないし生活感を隠すことができる。やはり、人の生活を覗かないほうが、自分の生活を顧みずに済むので、心身が疲れにくいのだろう。

    もし生活を世界に終日一般公開し続けると考えてみる。四六時中、誰かに見られているとする。一体、発狂しない人はいるだろうか。一人でいられるから、疲れが解消でき、思考を深められ、快適さを確保できる。その時間は恥ずかしいものである。一人の時間を人に語ることは、あまりしないものだろう。私的な話を聞きたい人もあまりいないものだし、話すには親密さが必要だと思われているからだろう。つまり、自分から語るにしても聞く人が少なく、隠すにしても誰も聞かずそのままにするのである。

    この共通の了解があるから、社会は静穏を保っていると言える。しかし、体型の自由がある。生活は崩れてしまいうる。だが通常は誰も言わないのである。生活は恥ずかしいものなのに、生活感が出たまま外を歩いてしまえる。それを見て自分の恥ずかしい生活を反省させられて疲れてしまう。だが誰も注意しないし文句も言わないのである。近代は個人を自由にする代わりに、品位や生活も個人の問題とした。誰も注意を滅多に言わない。言えるほど立派に生活していないと思うものだからである。私は街を歩く時、太り過ぎても痩せ過ぎてもいない人を、目立たぬように注目している。

  • #15

    姿勢が生活を表す、というのは真実で、日本語では姿勢が態度に似た意味を持つ。歩く姿勢、座る姿勢、眠る姿勢。佇まいや居住まいという言葉もある日本は、それだけ姿勢が人を表すことを昔から知っていたのである。米中よりも日本が生活満足度を高める製品開発が得意なのも、日本が生活中心に回っているためで、個人中心でも国家中心でもない点が、米中と異なる特筆点だろうと思う。生活は個人で営むものでないし、国家に全て握られるものでもないからだ。

    私は姿勢の悪い子供だった。卒業式の練習で体育館に並んだ椅子に座っていて、全校で一人だけ、姿勢を注意された記憶がある。正しい姿勢を学ぶに時間がかかるたちで、最近ようやく歩き方が身についた。しかしまだ、座位が苦手で、リクライニングチェアには倚りかかってしまい、凭れると楽になるどころか苦しむとわかっているのに、背を持たせてしまい、姿勢が悪くなる。背面を付けないと疲れてしまうが、それが座位特有の疲労感なのだろうと観念した。

    病のほとんどが姿勢を正すと整うというのも真実味がある。昭和男性が、休日にテレビを視聴しながら横になるという画があったが、あの姿勢をせめて平成的なカフェチェアに替えるだけでも、腹回りが収まるだけでなく、気性や心根が改善し、行動的になるだろう。これでさらに行動的になるので、病から離れる一方、改善する一方である。つまり、茶道や武道の所作のように、行動しやすい姿勢がある。その姿勢が生活に馴染んでいれば、身体を動かすので、病から離れられるのである。

    自然な姿勢を取りたいと思う一方、脚を組んでしまったり、頬杖をついてしまうのは、その原因のほとんどが、古にはなかったことをしているからである。文を打つ、動画を視聴する、眠いのに本を読む。そんなことは現代人特有の習慣である。行動中心の身体生活にとって不自然なのである。情報を取り過ぎて脳に支配されていることもある。身体の方が脳より圧倒的に賢い。脳は愚かである。そうでも思っておかないと、身体が最適化の犠牲になりがちになる。身体は脳を軽蔑している。脳が不自然さを作り出す。姿勢を正して初めて気づいた真理である。

  • #14

    洋服を買わないことにしている。私は洋服は好きで、今も手で触れにお店まで見に行っている。簡単にかっこよくなれるのがわかっている。けれども、買わない。すでに買い貯めたこともあるし、高価な洋服を着た人をかっこよいとあまり思わないためでもある。洋服の高価さで差別化するのでなく、洋服のしっくりさで個性化したいと思う。突き抜けたスタイルよりも、納得感のある服装が良いと思うのである。

    街の人びとと同じような家計で暮らしていると前提すると、大きく外れ値を選ばずに済む。だから収入も高くない職場を選んで働いている。家計の規模を貧しい家庭のそれに近づけて暮らしている。それだから誰からの文句を想定せずに悠々と胸を張って街中を闊歩できる。突飛な格好で目立つ人をよく観察すると、それだけ外見に自由を費やしているのだから、それだけ内面の苦心を重視していないのだから、私とは合わない人だろう、と推論できる。

    しっくりくる服装を知るには、自分を深く知って常に付き合う習慣が必要である。自分と関わることになる全ての人、出来事、もの、情報、街などと、自分が関係を作ることを重要だと見るということだ。すると、多く体験しなくても、少しで疲れられて満足する。数や量をこなすよりも多くの意味を受け取れる。だから、しっくりくる身なりを整えている人は話の意味が深い。人生を濃く楽しんでいる。知人にそんな人がいない人は、今すぐそんな人と仲良くなった方が良い。

    外見にお金をかける時期は、まだ知恵が足りない。栄養と休養で英気を養い、気を惜しみ、自分の心気を整えて歩く暮らしにすれば、自然と外見は整ってくる。このことから、外見にお金をかけすぎる人は、消費の欲に絡め取られた無知な人だと私は見ている。そもそも外見が重要な仕事など、人間性に価値が払われない大変な仕事であると思う。そういうこともあり、私は洋服とは訣別し、綿百の安価で長く持つ服を組み合わせて着まわしていて無理も問題も何ら起こらない。

  • #13

    私は経済規模が極めて小さい人間で、妻からはすっかり頼られていない。この小規模さは私が心で望んだことであり、育ちから言っても自然な成り行きで、両親もよく理解している。できるだけ資源の使用量を少なく抑え、知人の数も少なくし、お世話になる関係先も少なくして自分を知られないように生きたい、と高校生の頃にはすでに固く決めていた。それだから、そう難しい高収入の職に就かずに済んだし、贅沢で感覚を肥やさずにも済んだし、多くの人脈に時間を取られずにも済んだ。これは人生の成功だと考えている。

    お金持ちになりたい気持ちは、経済規模を大きくしたいという欲望だが、この軌道に乗って暮らすことは難しくない。成人前に早くから希望していれば、勉強に励んで就活でよく研究し、徳を積んでいれば昇進もするだろう。独立して仕事を作り広げることも、大学等で専門性を高く磨けば難しい話ではない。しかし、日本の人でそのような暮らしを望む人は今や多くない。むしろ、私と同じように、経済規模を小さく抑えて暮らしたい人の方が多いような気がする。

    人生経験上、貧しい時代の方が幸せだった、という話を先輩にすると、否定する人を見たことがない。経済規模はほどほどかやや小さいくらい、不自由しないくらいが幸せというものだ。借金を持ったり、狙われるほど積み上げて守ったり、隠し通そうとするだけで、大きな負担になる。おそらく、これは日本が現代になって見つけた経済の真実である。皆、富を求めて働くと思われがちだが、本当はほどほどの暮らしを続けるために働くのだ。

    米中経済大国に日本が買われている。日本政府が対策を打っても、米中はどんどん買って持つだろう。それほど価値があると評価を受けている日本である。だが、米国人は太り切っているし、中国人は美しくもない格好言動をとっている。日本はそうでない。日本は生活を何より大事にする。それを買いに来る外国人は知らない。なぜなら、米中人が買うものは、日本人が買わないでいるものなのだ。日本人はもっと別のものを買って暮らしているが、米中人は眼中にも入っていないように見える。

  • #12

    スマホをあまり使っていない。最近に始まったことでない。このような文書をメモするためにテキストアプリを使うか、書斎で動画を見聞きするためだけに使っている。他のアプリや機能はおまけのようで、実のところでは使いたくない。ちなみに、文書を書くときはiPadをキーボード付きで使っている。だがそもそも、スマホもiPadも、人から勧められて買ったもので、私自身の要求に基けばガラケーを探している。ノキア製が使えるキャリアを心待ちにしている。

    ジョブズの、点と点をつなげる、という言葉は、ジョブズの内側の知恵で、一方、愚かであり続けなさい、はジョブズの外向けの知恵であることは、これから指摘される視点だろう。点と点をつなげなければ、顧客を愚かであり続けさせられる。この彼の論理を早く見抜ければ、10年代を過ごす上で利益は計り知れなかった。私は早々に見抜いた。情報を取りに取り、知識をつなげに繋げ、身近な問題について実験して過ごしていたら、研究所が界隈で有名になっていた。

    私は鉛筆と紙で育ち、コピー用紙とペンで発想を磨く習慣を体得した人なので、今も書斎の机にはコピー用紙が広げてあり、3色のペンが立ててある。何の色も線も書かれていない紙。自由な地平。アイデアスパークの場が着席するといつもそこにある。一方、スマホだと入力は容易で、どこでも指さえ利けば文字で残せる。だが、スマホで思考することができない。思考を進めるには更に歩くしかない。だから、スマホで書いた文章には、かなり歩いた痕跡が染み込んでいる。

    電子マネーもあまり使わない。現金で払っている。鉄道も切符を買う。財布を忘れた時のために入金は済ませているのだが、決済で電力と数秒間を使うのも不便だと思うのだ。ポイントは何においても貯めていない。会員カードを作っていないのである。購買を促すバナーやキャンペーンには閉口しており、現金を長財布に持ち歩くのが安定して買えて良い。ちなみに、この長財布は妻に頼んで選んでもらった逸品で、結婚と同年間使っているのだが、今も真新しい気持ちで綺麗に使っている。

  • #11

    活動に対しては、当然ながら休む自由がある。整理する自由と言っても良い。得たものをまとめ、後で使いやすくする行動である。ことによっては忘れ、ものによっては捨て、時によってはやめることも選択して良い。時代が停滞せず流動的な今は、もはや一つの場所にとどまる必要は無くなったので、希望すれば移って始められ、暮らし直せる時代である。続けることも慣性なのか困難でなく、時が経つにつれ困難さは償却されて楽になる。だから、始めるにも続けるのも難がなくなった。

    そこで需給の面から、サービスを断続的にするという案が持ち上がる。常にサービスしていなくて文句がない社会にするという案である。店員がいない時間や、製造元から製品が出荷されない日や、閉店日を平日に設けることである。サービスを常に提供するためにシフト制が組まれている。誰かが充てがわれれば、サービスを24時間提供できるという考えである。労働者の2割程度が、24時間サービスを提供する職業で仕事しており、多くはシフト制である。休みなく働くのは過酷だが、高い専門性が加わってくると属人的になり休むことが許されなくなってしまいがちである。

    自分で活動の種類を決められるようになっている。希望する仕事に就き、希望するだけ働いている人も少なくない。その分、生計は小規模にしか実現しないが、小さな経済で充分に暮らすことが可能になっている。時間を使うことが労働の動機になっており、休息の方法にもなっている。時間の主人を勤務先と自分で交替させることが日常であり、いくらか設計できるものだ。人生の操縦桿を自分が握れることは、生活を楽しく、そして恵ませる。急峻な革命や、尊大な儲けを求めなくても、幸福を身近にしつつ暮らせるのである。

    近代が求めてきたことが快適さだったと判明したので、快適であり続ければ近代には完成宣告が言い渡されるだろう。活動しすぎる現代人には、持続可能性が守るべき目標になっている。ほどほどにしておく、さほど求めないでおく、望みは後に取っておく。そういった未来管理を、個人が全体を見据えて立てていくことこそ、現代らしい目標であるということだ。私は、健康、長寿、卓越を標榜しているので、活動を長期で捉えられる上に、継続も容易である。休むことも達成に必要であると納得できるからである。

  • #10

    社会全体の均衡をとるために、少数の人々が多数派と異なる思想を持ち行動することが、全体にとって要となることがある。おおかたが絶望している時に希望を振り撒き、おおかたが喜んでいる時に悲しむ人。大多数が貧しく困っているときに大きなことを成し、多数派がうきうきして多くを買うときにほぼ何も買わない人。こうした人々が、社会全体のスパイス、特効薬、潤滑油となる貴重な人々である。いわゆる賢い人々はこのような姿をしている。そのような人々を時代が確実に擁していれば、その時代は有望である。

    個人の満足に置かず、社会全体の繁栄に満足を覚える人物である。産業を興したり、発明発見を地道に求めたり、状況をみて思想を提示したりする活動は、社会を動かす。一般に、社会の流れが停滞する原因は、人々が飽きたり、行動が制限されなすぎたり、上限がなく無限にあると信じ込まされた場合に起こりやすい。だから、永続することや工夫することや有限であることを教える人は貴重な存在であり続けている。そして今や、永続性、上限性、有限性は、人間が自由に行動する条件として広く知られたため、社会活動の停滞は当分起こりそうにない。これはうまくいった例である。

    それでも苦難を過ごす人たちがいる。行動できにくい身体的故障の場合、金銭的にあまりに貧困なため行動選択ができにくい場合、知識や能力が生まれながらに不足しているために行動の構想がうまくできない場合。これらの人々には支援する人がついていれば、本人が活動によって自由を感じることができる。訓練的に行動経験を繰り返して積めば、普通以上の結果と先行きを体得することもできるだろう。条件次第で活動は多く広がれる。時代でそれが可能になったからである。

    思想の達成により、人間が活動の流れを停滞させなくなったのなら、高騰株価のように、活動の指標となる数値は伸び続けるだろう。人は個人で満足しても、飽きずに新しく見つけてくるからである。活動を飽きずにし続けるのが人間だとも言える。よって、活動する社会条件が損なわれない限り、人間は繁栄を持続できるのである。制約は活動を生む。資源や倫理上の制限が話題に上っているが、制約が行動をなしやすくすることを踏まえ、ありがたく議論を進めてかまわない話題なのだ。

  • #9

    知るとは、同時に作り変わることだ。知る前までの自分が、知ったことで変わることだ。これを学問知や勉強や情報や方法論だけにとどめておくのはもったいない。人のことをあなたはどれほど知っているのか。知らないのである。両親のことも兄弟のことも、妻や子供のことも、知っていることは本当に少ない。ため息が出るほど知らない。しかし、それでいいのである。生活は進んでいけるのだから。

    自分のことを知って欲しいと思う気持ちは欲の一種だが、知って欲しいように知ってくれる人はいない。いるとしても、自分の全てを教えてそれを自分と同じように理解してくれる人はいない。教えて理解する、という枠組みを学校の試験のように考えてはもったいない。一字一句正解を用意した自分に関する試験を作って正答率を競わせる王国でも作りたいのか。そんな自分に関心を持つ人など、冷静に考えていないだろう。

    私は人になんとも思わないように過ごした時期が長くある。中高生の時、隣の人のことをあらゆる点で断定できないことを痛いほど知ってから、自分についてもよく振り返ると何もわからないことも知り、文学作品を理解したと思うことも、哲学的語彙を理解したと思うことも、なくなった。自分で作ったものなら自分で完全にわかるだろうと思ったものだが、人に意図と違う感想を持たれるたび、自分で生んだものさえも人には意図と違ったように映るものなんだと半ば諦めたものだった。

    そんな思春期を送れたのは幸いだった。理解している私と同じ理解に達する人はいない、と何においても常に思える。だからか、人の話をよく聞ける。どうせ同じ理解になど達しもしないし、達する必要もない。私の勝手な理解も誤謬になるから記憶もしない。それよりも、多くの人に認められた確実な理論と思考法のほうを読み磨いている。そうすれば、人やその話を過去のより多くの人がした理解の仕方で理解できる。自分の理解にこだわらない。独特から抜け、歴史的に多くの理解が得られる次元へ進むことが、垢抜けることである。

  • #8

    私の読者が、私をどんな人だと思うか、私は聞いて見たいと思う。というのは、私は自分がどんな人として見聞きされているか、よく知らないからだ。ただ、あまり興味はない。なぜなら、私は自分がどんな生き方をした人か、自分では誰より正確にわかっているから、誰かが私より正しく私を理解していることはありえない、と正しく知っているからだ。もし誰かが私の言動を見聞きして、彼はこんな人だ、と断じられれば、私にはそうでなくなる自由がある。故に、私に関して抱いた印象を私は否まない。印象を持つ自由はあると思うからだ。

    感想を持たないようにしている。感想や印象を語ると、断定されたと信じる人が異様に多いからだ。おそらく、自分をよく知っている人がそんな反応をとる。ならば誰にも自分を語らなければ良いし、誰のことも考えなければ良い。自分の中の宝物は簡単に人に見せてはならないはずではなかったか。だが、やはり人は感想を語るし、印象を持つ。虚構の世界を好むのは、感想や印象を直接的に持たなくて済むから、というのが大きいと私は思うのだが、私は虚構が嫌いだ。

    仮説と検証を繰り返して、人間その人を知りたい、という気持ちは、山々にしなくてはならないが絶つことができない。どうせ私の読みが浅いか、私の頭が表面的か、理解が不足しているに相場は決まっている。個人を理解するなどできそうもない。私のことでさえ、新発見が年に何十回と起こるのだから、私は常に私の中に謎を、私の周りに居る多くの謎と共に、自然環境の謎だらけの中で暮らしているのである。

    最近は、人から断定されるのも快い。断定してくれた、と思う。そうすれば、私は明日からそうでない私として暮らせるから。断定に従う必要なんてないのだ。その人の中の断定的な印象を、明日からとても良い意味で裏切れるのだから。楽しいではないか。どうせその人は断定をまたしてくる、私はそれを裏切る言動を取る。そしていつしか彼は私に敬意を持つ、それが私の経験則である。人間の自由、それは断定や差別や格差の言論に従わず、それらの裏をかき乗り越え変化させるところに存する。いくら科学的解明が発展しようとも、人間は多様に成長するのだ。

  • #7

    私がここに生活の科学として書くことは、自由権を「ほどほどに」使おう、ということに集約できると思う。生命、自由、幸福の追求が認められているからとはいえ、他人のそれらを妨げてはならないのだから、資源の点で控えめにものを使い、資本の点で過度に儲けず、増やすなら少しずつ増やす、という基準を充てると幸福になりやすい、と述べたいと思っている。過度に関わったり、過度に力をつけたり、過度に権利を行使するのも、考えものだ、ということだ。

    自由は、無論、素晴らしい。他人に迷惑をかけない限り何をしても良いことは、人類の存続と繁栄に向けた至高の原理として見て良いと思う。ただ、どこからが迷惑で、どの世代に迷惑で、何をしたために迷惑か、など、迷惑の範囲が常に話題にされる。それで個人は面倒になって孤独に時間を過ごすことを求めたり、欲を消して控えめに行動したり、行動自体を控えたりする。これらは良いことだと思う。全体としてなだらかに推移することに貢献するからだ。

    では、自由はなんのために認められたものか。それは戦争の歴史や租税や搾取産業の話を聞けばすぐにわかり、現代は大きく改善された。これは市民運動の偉大な成果である。こうして自由は拡大した。だが、拡大し天井がなくなると、人は制約を求める。個人は自由が無限にあると認められないのである。無限の自由の下では何もしないのである。この何もしないための自由が自由の本質であり、大変良いことである。過剰な消費と生産を防ぎつつ、相応の幸福や満足を存分に享受できるからだ。

    自由の本態は、何もしない時間が大部分で、何かしようと考えたり、しないと判断したり、するもしないとも限らない思念で心を満たすことに、おおかたの時間を費やす権利こそが、自由である。つまり、制約を作ることで行動に移れる。行動するには制約を設けなくてはならない。これが近現代の社会生活の隠れた規則であり、何かを成し遂げない自由は、制約を設けない自由でもある。このように、何も成し遂げないで生きる自由を保障されているゆえ、何かを成した人の利益を分配する義務をわざわざ果たそうと考える人は少なく出現するのである。自由は弱者のためなのだ。

  • #6

    私が広告に関心を持つのは、その宣伝の仕方だけであり、内容は見ていない。広告に影響されて買ったもので、今も持ち続けているものがないからだ。これは深く不思議なことである。宣伝に乗って買ったものは、大事にされない。単純に考えても、買う時に興奮の最高潮に達したものは、その後大切にされない。つまりこれは恋に似ている。ずっと持っているからという理由で愛したものに生活は囲まれるからである。

    広告が無効であることを知ると、広告の目的を考えるだろう。店名や企業名だけを知ってもらう程度の効果しかないと諦めなくてはならない。つまり、クリックやタップで買えるようにした広告では、作ったものが大切に扱われないので、利益至上でなければむしろ広告は打たないだろう。偶然出会った人に良い人がいないように、見ず知らずのものと出会ってもらうには、必然の線がいるのである。

    旅先で、街に惹かれる店があった。本棚を探っていたら、隣に関心のある書影を見つけた。辞書を引くと、同じページに類語が芋づるで載っていた。こういった必然から、人は興味を抱く。検索した語に関連する広告の方が、データから計算されたおすすめよりも、満足した行動に結びつきやすい。おすすめで買ったもので長く持てたものがいくつあるか数えてみてほしい。インフルエンサーのお気に入りを買ったところで、自分のものになっているか、振り返ってほしい。

    生活を見回してみると、身の回りにあるもので自分のものになっていないものが、意外と多くある。なぜ買ったのかさえわからないもの、どんなものなのか本当はよく知らないもの、使い方の記憶がなくなったもの。部屋にあるもの全てを持っているとは限らないのだ。かといって捨てる判断をするのも惜しい。買う判断をしたものばかりだからだ。少なくとも、自分を知ることには役立つ。なぜこれを買ったのだ自分、と。消費行動とは不思議なもので、自分のことなのに全てを把握できそうにない。

  • #5

    年に1回、10万円を超える買い物をしている。今年は眼鏡を買った。最近だと週5日は掛けている。鼻当てがなく、小さな丸縁で、古舘伊知郎さんが同じフレームを掛けている写真がウェブに落ちていた。10万円台の買い物を、年に1度しかしないのか、と読む方もおられよう。そう、1回しかしない。数万円台の買い物は、年に10回くらいする。これらは意識して制限してはいないから、私の性格によるものかも知れない。

    この規模の消費しかしないと考えれば、経済社会への申し訳なさが先立つ。それで私にちょうど良いのが、高価な買い物を月に1回程度することなのである。買い過ぎても、買わな過ぎても、世間様に申し訳ないような気がする、ということである。そういう意味では、私には物欲があまりないと言え、ものにこだわりを持ちにくい性質がある上、人に簡単に譲ってしまうから、物好きに言わせれば邪道の二流である。

    普段の私は、半額品を食べ、セールで買った服装で生活している。そう奇抜なものは好まない良識はあるつもりだ。食材は栄養価で買っており、衣類は綿100%しか着ない。安価な良品で暮らすのが最も良いとの考えに至ったのだが、そのためには知識がいる。勉強し研究した報酬だと思うことにしている。例えば、秋なので大根を味噌で煮て食べようと、昨晩1本100円で調達し、若干の醤油と半額で買ってある赤味噌で鶏肉と2度煮ようと思う。貝原益軒の勧めた食べ方だ。

    富んだ人々が貧しい人を避けるのは、わけもない話だ。富や出費が感染するとされるのは、不足するから買うわけで、得られたと思えたものを買う人はいないからである。消費の仕方で人生は幾らも変わる。私の消費の仕方も、老いてくれば変わるだろう。だが、多少の変化だろうとも思う。私は贅沢を覚えなかった。好めなかった。その代わりとなる贅沢は色々知っている。葉を観察すること、雲を眺め形の成り立ちを想像すること、鳥の声から話を推測すること、などなど。私には十分に贅沢な生活に思える。

  • #4

    今回は生活の楽しみ方という話になるだろう。といっても、読者はすでに生活を大いに楽しんでいる方ばかりだと思う。その話ではなくて、今回は、不安を悉く免れた生活にする方法である。簡単である。学問することを勧めたいのである。学問は大学生の時にしかできない活動、ではない。社会人になってからこそ、本格的に学問できる。私は10代の頃からそう考えており、大学では薄く広く講座があって、かつ深めたい分野を専攻できる学部にした。はなから大学で終えるつもりはなかった。

    学問は今や、新しい知見を生めなければ役に立たない、などと思われがちであり、人に伝わらない研究は無意味である、と見做されがちである。というのは、多くの人にとってその学問は疎遠だからだ。知識が膨大な量になり過ぎて、アクセスされず存在が認知されにくくなった。生成知能で補完できるとしても、有名な受賞によって初めて、何十年も前に成果が出ていたんだと感動を新たにするという体である。つまり、学問を仕事にするのは容易いことでない。

    私は趣味で数理科学を10年、実質では20年余り、研究してきた。補助金などいただいたことはなく、成果を論文誌に投稿したこともない。自分でウェブサイトを作って公開したまでだ。幸か不幸か、そのウェブサイトに読者がつき、成果が有効に活用され始めてから、私は責任を負って研究に邁進した。文献を自前で購入し、サーバ費用も自腹で契約している。私の功績は、そのくらい活用しやすい形で提供したということでもある。私の説明の仕方で世間に流布した文句もいくつかある。

    とどのつまり、大学にいられなくても、学問ができるのだ。さらに、新知見を見つけたり、そうしようと思わなくても、学問することが十分できるのである。むしろ、市民として学問することは生活する上での役目でさえある。と言ったところで、すでに会社で趣味で学問が身近な人がこの部録の読者の大半であろうと思うから、言葉を増さないことにしたい。趣味で新知見を見出した珍しい例として、私を認知している方が読者の大半であろう。今は電子で国富論の第1章を緩やかに読んでいる私である。

  • #3

    私の部屋は書斎に使っており、同じような部屋はないと断言できる。照明が8つある。秋口からは蝋燭を、ベランダには椅子を据え、マンションの2階ながら西向きの空を眺められる。今この記事も、夜9時台に薄涼しい夜風を感じながらiPadを膝に乗せて書いている。ラジオをつけていて、いつものパーソナリティの声が聞こえるが、内容は入ってこない。書き終えたら聞き直そうと思う。面白そうな話であることはわかるからである。

    この書斎は6畳で、妻に使って良いと言われ自由に使っているうち、心地よく集中できる環境に仕上がった。いつも書斎にいると、多くのことを省略し、より多くの思考を持つ余裕が生まれ、いつまでも思うように安らいでいることができる。自分に良い部屋だ。客観的にも美しい部屋だと思うので、別サイトで写真に撮って公開しているが、8千人の読者がいるようである。

    インテリアはIKEAがほとんどで、価格も安価なものがほとんど。私は高価すぎるものを持ち合わせることができない。例えば、鞄は2千円がせいぜいと思うので、1万円台なら大事にできるが、2万円を超えてくると、自分には似つかわしくないと思い重荷となってしまうため、買ってもすぐ売りに行ってしまう。反対に、本は3千円するものだと思っているので、1万円を超える本は何冊も買ってきた。

    社会生活で不足するものが部屋にある、という法則があるようだ。私の部屋にはすっきりした幾何学的デザインと、哲学や科学や文学など敬遠されがちな本がある。私はこれらが好きなのだが、これらを好きな人はあまりいない。幸い、私の知人には関心を持つ人が多い。だから、それらの話題で喜んでくれ、関係がうまく繋がる。社会はうまくできていると思う。もので欲を満たそうとしていると、流行のものを身につけることで、しばしの安心を得る。私はそうは成れなかった。今夜も夜風が眠りに誘う。

  • #2

    ありがたいことに、私には人が絶えない。多くは女性である。年齢は色々で、長く続く方も少なくない。かっこいいと言われることもあるが、自分には余りあると思う一方、理由は単純な心がけのせいだとわかってもいる。と恥ずかしい話になるが、今回は他意なく書こうと思う。断っておくが、私はつむじはげが広がりつつある40歳の中年男にすぎない人間である。

    その単純な理由とは、人のしないことだけをしよう、とずっと考えてやってきた、ということである。考えの水準だけでなく、行動のあらゆる面においてである。例えば、割引品で生活する「割活:わりかつ」をもう1年以上やっている。割引になるのだから、買う人がいない。つまり、割引品を使う人は珍しいのである。割引野菜を食べる人は少ないのだから、そうやってできた身体や体調は自然と珍しくなる。

    また、衣食住知足の中で、衣服についても、私はもう1年以上服を買っていない。昨秋、半額品を5年分は買い貯めたからである。コットン100%の肌着や白Tやニットやパンツを買い、それらを愛用している。肌に優しく、寒暖差も過ごしやすく、洗濯にも強い。綿に勝る繊維はないと思うのだが、そう知っている男性はあまり多くない。化繊のせいで敏感肌用の化粧水を買い溜める人もまだいらっしゃるようである。

    私は自分の思うように行動する人だ。もちろん自分の範囲を超えない分別はある。思うことを形にでき、言葉に記録でき、無いものを必要に従って作り出せる。例えば「衣食住知足」という言葉を作り出して使ってしまえる。足は移動すること、私には歩くことである。歩くのが大好きで、どんどん行ってしまえる。人のやらないこと、誰も考えなかったこと、世界で作られていないこと。ただ珍しいことを形にする習慣があるため、私にかっこいいという言葉が投げかけられるだけであると考えている。これからは年齢の割に節度を持ち、言動を慎んで生きようと最近考えている。

  • #1

    最近、私の住んでいる街に、恋人や夫婦で水入らずのうちに歩いている光景をよく見かける。おそらく、景気が悪くないから、というのは大きな要因だと思われるが、単純に、文明が飽和せんとするほどだということが背景にあろう。つまり、一人で過ごすのも良いが、ずっと一人でいるより二人で暮らす方が無論良いとのことだろう。これはコヘレト4:9-12にある。

    私たち夫妻は、日本の一般的な夫婦からは、やや外れている。昭和的な団欒はないが、平成的な不和はなく、令和的な多様な夫婦の中に回収できる一夫妻ではあろう。特徴は端的に、互いに何も束縛しない点に表れている。普段少しも一緒に過ごさないのである。帰宅出発や就寝起床の挨拶はする。それで十分という気がすごくする仲なのである。

    そもそも妻はキリスト者で勤勉家であり、精神的にも経済的にも完全に独立した方だ。私が遅れて独立できたのも、妻が先に完全独立した人間だったからだ。結婚前からそうであったから、私は妻の生き方に多くを教わった。そういうわけで私は、私個人の少なめの収入を好きに管理でき、妻は趣味で自炊しないので、私は冷蔵庫と台所を自由に使え、毎日満足の域を出ないのだ。

    結婚は一緒に暮らすことでもない。別に暮らしているからといって別れなくてはならないのでもない。互いの気持ちが少しも変わらないなら、むしろ最も快適な結婚生活になる。妻も私も熱中没頭する趣味がある。各々で経済的に自立している。子供や車を持たないことや、住居に関し意見が一致しているため、諍いが起こらない。私はただ気持ち良い生活がしたかった。妻と結婚し、全てが叶った。思っていた天井を遥かに超えてきた。

  • #0

    このドメインで部録を閉じてから2ヶ月が経った。だが、サーバのデータによれば、まだ毎日のようにアクセスがある。その閉じた部録はたった2ヶ月の公開だったが、計4千人の読者がつき、ページビューは延べ10万に達した。これを私は、まだ読み足りない読者がいると解釈することにした。そこで、趣旨は変えるが、私の生活について書くことにしようと思う。推しがいるとして、その感謝の気持ちからである。

    何を書くかと考え、私の専門は何かと問うた。数学はアマチュアだ。物理は専攻できなかった落第者にすぎない。文学はゆっくり味わう人なのでそう記事にできない。そこで、私は考えた。生活科学が私の専門だ、と言い張ることにしようと。確かに高校生のころから今に至るまで、関心を持ち続けている領域を一言で表せば「生活」になる。そして、生活について科学するなら、需要が高そうな内容になるだろうと。

    生活に関心があるなら、生活にしか関心がない、とは言えない。なぜなら、あらゆることに関心がある、という意味になるからである。それで、福澤諭吉が述べたように、人の上に浮くような贅沢も、人の下を這うような窮乏も、生活に関心が足りない人が営む生活にすぎない。このあわいをなだらかに安定して暮らすには、生活を学問するのが良いと思われる。生活にまつわる変数の変化を、常に操縦できるからである。

    この書き物は自由に複製していただいて構わない。動画にしたり商業出版したり、生活に取り入れていただけることで目的は達せられる。この文言は私の書き物の常套句になっているが、私にはやはりどうにも出版するつもりが決まらない。メディアが怖く、有名になることを恐れてしまう。性格的なこともあるし、半生を慎重に過ごしたために慣れてしまった。私の読者はもう聞き飽きたろうが、満足してくださることと思い筆を執る。