• ドイツ#2

    ドイツ圏の哲学は、自分を変えてしまう。イギリス圏のはまだ、実験と知識獲得の伝統があるので、一人では何も知れない、という基礎認識がある。フランス圏も、言葉のユーモアで語る文化として哲学が理解されているので、全てを知るというモードはない。しかし、ドイツ圏の哲学は、論理を見出してそれを突くことで、全てを知ろうとする営みであるように思われる。

    デカルト、ニュートン、パスカルの違いである。私が親昵したのはフランス圏で、これから学びたいと思うのはイギリス圏の人間観だ。ドイツ圏の哲学には、やや恐怖がある。デカルト・カント・ショーペンハウアーがかつての日本の学生の定番だった。私も一作ずつは読んだ。精神指導の規則、啓蒙とは何か?、読書論である。だが、やはり論理が強く、本当か?となってしまう。

    私は学生時代を、ニーチェ・キルケゴール・ウィトゲンシュタインで過ごした。この選書は定番ではないから、同様に体験した人は多分まだ少ない。私はこれらのおかげでキリスト教信仰を持てたのだが、他にも論理の本質、哲学の性質、文章の配慮など、多くの人がまだ語っていないようなことを存分に学べた。

    私はイギリス圏の、ヒューム・アダムスミス・ジョンロックで、数年過ごすつもりでいる。人間観を養い、人を見る目を鍛えるためである。一方で、カントの三批判書をまだ体験していない。買ってはあるが、本文を開いてもいない。カントの配慮はどんなだったか。カント以降の哲学を、私はあまり好きでない。それがなぜなのか、三批判書に答えがあるとは思う。いずれ読むだろう。

  • 日本#2

    日本で今話題なのは、憲法と移民の件だ。大雑把に分けるとすると、徹底護憲し移民を受け入れる側と、自由に議論して改憲し移民は受け入れない、の両側に分かれるだろう。前者は日本を平和国家と特徴づけて世界に表し出す考え方、後者は世界標準に合わせて国家を無個性にしていく方向である。では、前者の弱点から見ていきたい。

    憲法により戦力を持たないのであるから、米国には徹底して安全を保障してもらいたい。もし安保を軽んじるのであれば、軍費用が重すぎるゆえであろうから、災害時に米国の農畜産物を優先して買い付け、貿易摩擦を軽減する交渉をつけておくことは考えられる。また、米軍基地を減らす案は地政学的な平和が結ばれるにつれ段階的になされてもおかしくはない。危ういのは、米国が国際的にへまをして、間接的に、どこかの国が日本を攻撃した場合である。そんな事態は起こらないと信じているが。もう一つ、日本が全世界的に攻撃された場合である。様相としては、日米対世界、という構図である。これは何としても避けなくてはならない。

    そもそも戦争という手法は、侵略を先にやってしまうという、土足で敷地に入るも何も失礼千万な方法である。国土を併合したいのなら、本来は交渉から入るべきだ。武器は併合後、土地を真っ新にするためだけに使用する、工事用の道具だ。人を殺すためでもない。もし、交渉で応じないなら、その時ではなかったのだ。時間をかけて十分待ってから、解決の時刻を待つべきだ。国土の変更はそう容易な話ではないとまずは十分に観念しなくてはならない。

    さて、改憲し、自衛軍と戦力を持つこととするなら、日本のどこかに武器を格納する倉庫を置かなくてはならない。おそらく地下であろう、他国に知られてはまずいのだから。ということは、地元の人にも守秘義務がかけられ、漏らしたら諜報容疑がかかる可能性もある。思うに、日本の若い自衛隊員が軍人として善戦できようもないと思うのだが。それならば、日本を平和国家として売り出し、世界から移民を受け入れ、共生する方が望ましいのではないか。ちなみに、護憲して移民を受け入れないとすると、世界から希望者が大量に断られるので、日本だけが世界中から攻撃される恐れがある。そうでなければ、世界各国の法制に対し、平和な土地の拡張を思想的に売り出すしかない。護憲と移民はセットで考えなくてはならない。

  • 日本#1

    近現代とは、キリスト教のための時代であり、というのもその始源からして聖書の論理を社会に実装したものである。ただし、聖書からそのごく一部を引き出したにすぎない。だから、近現代を更新しようと思うなら、聖書の他の部分から論理を引き出し、それを追加しなくてはならない。実際、この方法はすでに採られており、社会を多く豊かにした。

    須く、キリスト者には住みよい時代であるが、そうでない者にとってはなんのために生きているのかわからないような社会であろう。神も主も見えないのだから。それで神格化したものを求めようとしがちになる。それらは偶像であるから、それらは邪教である。そこで求めがちだったものが、資産であった。

    富が三十年あまり盛り上がらなかったと言われる日本のこの三十年である。なんのために働いているかさえわからなくなっており、深刻にならないのは、日本の人は学ぶからである。特に動画コンテンツは、無料であることも相俟って多く視聴され、また、買った物を捨てず手入れしてずっと使う文化も普通になった。物が売れない。

    この近現代を良く生きる方法は、一つしかない。キリスト教信仰を持つことだ。全てそこから始まる。だが、信仰を持つに至らない人がほとんどなのだ。であれば、日本人がより豊かに生活できるための論理を聖書から見つけてやろう。それが義理温情というものであろうか。これなら私にもできる気がする。

  • 韓国#1

    キリスト教をわかりもしない人が、どうして哲学を論じる気になるのだろう?そんな著作家が多いこの日本である。キリスト教についての言及を見ると、その人がどんな人となりか、よくわかってしまうのは面白い。大概、一冊で済む。一冊で終わった作家が数えるほどいる。私はそれ以上読みません、どうでも良い理屈だからです、理屈家さんさようならーー

    さて、聖書から理屈を借りてきた著作家が、今あまりにいない。ルターもジョンロックもキルケゴールも、聖書にある論理から論じたのに、今は古典からも借りない論述家ばかり。勝手な理屈が出版界を席巻している。SNSが身勝手になっていることを、著作家たちは反省もしない。自由に論じられると思うな。人間の好き勝手に社会を作れると思うな。そんなことを言える作家も少なくなった。

    ヘイトや右翼は典型である。どうして移民を拒む理由が、自分の限界を見ない理屈なのか。笑止千万。愛を知らない人が、愛せない人の理屈を支持して自分を宥めるだけの構造が見える。日本人とはこんなにも愛を知らない民だったのだ。キリスト教への理解がまるでなっていない。韓国の皆々様には、このことをよく知ってもらいたい。日本はキリスト教後進国なのである。

    日本の停滞と知識人の逗留は底を通じている。何も進められることを考えてこなかった。サブカルチャーコンテンツも同種頒製である。もうそろそろつまらない真似をやめて、愛を知るべきではないのか。すなわち、自分を捨て、迫害する者をも祈る愛。仲間のために大事なものをも渡してしまう愛。自由がないと言う。欲と自由を混在しているからである。韓国の方が圧倒的にまともだ。日本人は長らく時間消費の欲に絡め取られている。どうにかしてほしい、各自で。

  • 人柱の話

    私が人を避けてしまうのは、単に私が人を疲れさせてしまうからだ。私のせいである。私がひどく物事に気づいてしまい、活用されていないものを活用する案を思いつき、より有効な使い方を考えついてしまうからなのだ。それらを一つ一つ稟議していては、私のために時間を使ってしまうようなものなので、それでも私が活用案を考えつくものだから、皆、疲れ果ててしまうらしい。

    もう少し脳の機能が押し黙ってくれたら良いのにと思う。自分の書斎だけ自分の自由にして、会社や組織では評価されたいと思わなければよい。しかしそれでも資源が無駄になっているとどうしても頭が動いてしまう。これをこうしたら活用できる、と。そんなことばかり考えてきたから、自分の案を検討する癖がつき、どんなに素晴らしい案も実行されないでいる価値があるとも思う。

    案を買いたい人は、ひと昔と比べてだいぶ減ったのではないか。今や生成知能に聞けば妥当な案をいくらでも出してくれる。人間が考えるより一般的で気持ちの良い会話相手でもあるのだし、私など出るまでもない。こうして脳が持つ活用の思いとは裏腹に、案は捨てられていく。書き留めもされないのは寂しいので、自分でこうして部録にまとめておくのである。

    私は一人で楽しめる人間として育ってきたので、これからもそうである。娯楽にお金を払ったことない。本は増えるが面倒な本は読んでいない。労働に心血注ぐ人がいるから社会生活が成り立っていることを思う。私も数学の件では人柱になれたと思う。活動とは討ち死にである。私もまた、歴史における無名の小石の一つになれた。川のように流れる世で止まり、じっと見つめる存在になった。

  • アメリカ#1

    今朝、トランプ大統領がイランの核施設を三箇所攻撃したと報じられた。あれほどノーベル平和賞を取ると言っていたが、核の抑止目的とはいえ、もう絶望的だろう。事前に破壊することは国際法で認められていないそうで、私はジョンロックの所有権の説明を読み直して過ごした。分け前以上に持とうと思うから所有の争いが起こる。アメリカは今、過剰に平和の主導権を持とうとしている。

    ネタニヤフは強さが平和を生み出すという。キリスト教では弱さにこそ平和を生み出す力がある。つまり、イスラエルは今、ユダヤ教である。キリスト教と反対のことを主張しているのだから。武力くらい作って所有するくらい許せ。刃物や縄でさえ持てなくなるぞ。しかし、危険な物を作って持って良いのは強い国だけであるとの考えらしい。

    世界はこんなものか、と考えるのは意外と大事である。日本が大国だという認識がないが、日本人のおおかたも、大国だと言われてもそんなの大それたことだと思うだろう。日本人は良い面で日本を世界で大きい国だとは思っていない。日本が世界でも有数の恵まれた国だと言われても、日本での生活が世界で珍しいくらいのものだと言われてもピンともこないのではないか。世界は今、そのくらいのものなのだ。

    大国の中では、私は日本に住みたい。幸い日本人の両親のもとにうまれ、日本語を読み書きでき、日本の教育を受けて育った。確かに住みやすい。与党は良い仕事をしている。なんだかんだ言われていても。先日、地区選出の国会議員と話す機会があったのだが、姿勢が真剣だった。油断の汗さえ無かった。座位の姿勢が悪かったもう一人の方も、事情を深刻に聞く姿はプロだった。アメリカは大国だが、単にそんなものだ。

  • ドイツ#1

    ドイツの合理性は、日本と違う。先日マンションで水道管立入の際に清掃員に聞いたところでは、ホースの先端に水流が四方へ飛ぶ金具を取り付けたのはケルヒャー社の発明らしい。これを管に通すだけで管面内の汚れが流れ落ちる。環境的な発明だと感じ入った。と今もグリューワインを30mLほど飲んだ後にこの記事を書こうと思ったのだが、赤ワインを甘くして桂皮を入れようと思ったのが合理的で、せっかくなら常用品で健康になろうという考えが根底にあるのだろうか。

    私にはどんな本を読んだ人か嗅ぎ分ける才覚があり、大概当たる。特に当たるのがドイツ的な哲学書を読んだ人だ。百発百中である。ただ、これは私の特技でもなく、そう思い当たる人は多いように思う。やはりドイツの普遍理性主張は個性的に映る。これは島国日本だからばかりでなく、大陸が接している国においてはドイツ的平和協調論は尊敬の目を向けられるのだが、島嶼国においては早々に離脱を望まれるものに過ぎない傾向があると感じる。何か空疎な論だろくらいに。

    ただ、ドイツ製品の合理性には無駄がないことは承知のことで、日本の製品にはない特徴として、形態も色彩も耐久性も、ドイツ的なものの方が徹底して合理的である。日本はこれらで凝ってしまう。だから愛される面はあろう。ドイツが世界一のGDP国になったことは自明と思ってよく、なぜなら労働と休息についても合理的で、尚且つキリスト教国であるばかりでなく、東西分割の件や、最低の代名詞:ヒトラーの件の反省もある。背負うには厳しい歴史だと思う。

    新しい首相が痩せ細った人だった印象がある。論理が先行した体型である。丸縁眼鏡が似合っていた。私もまとまったお金を手に、今度小さな丸眼鏡を新調するつもりだ。西田や九鬼のようなデザインだ。一度店舗には行って確認済である。どうしても日本には合理性が馴染まない気がする。混沌、ごた混ぜ、区別無しが、心地よい。ただ、世界の事情で多様性を分ける議論が喧しい。しかし、日本では分ける議論が自然と起こらない。合理性が排斥される。それで良いと心底思う。日本は特殊な考え方の国であっていい。

  • イギリス#1

    イギリス的なものを愛している!そう確定したのは、今日の夕礼拝だった。古本屋でアーレントを買ったのだが、少し読んでみると論理ないし理屈に怖気付き、またあの無理からぬ普遍世界論理か、と異臭がした。ドイツ的なものはどうして無理を言うのか、と考えていたら、やはり私が日本から出たことがないという面もあろうと思った。つまり、大陸に接していないから、ドイツ的なものに現実味がないと感じるのだ、いくら読んでも。

    私にはイギリス的なものが合う。ちょうど信仰と興味の配合が、壮年期に入る私の卒塔婆心に適合する。これからしばらく楽しませてもらいたい、その著者は、アダムスミスとヒュームとロックである。この三巨頭で十年はいける。それぞれまだ一割も読めていないが、今の私に面白いことはわかっている。

    イギリスは島国であるだけでなく、緯度が日本より寒い位置にある。カナダ的なグールドより、アンドラーシュシフが圧倒的に好きなのは、エルガーの快活さが骨身から出ているからだ。栄光の国!希望と自由!神を讃え満ち溢れる!と高らかに歌う国に、憧れはある。食事は粗末と言われるが、私も最近は質素になった。東南アジア的な豆種系の食事だ。

    教養の有無で、紳士か庶民か階級が決まってしまうという国だと聞く。その分水嶺であるアダムスミス、ヒューム、ホッブズ、ロック、ベンサム、ニュートンを、これから読み砕いていきたい。近代の起源であり、聖書を基に据えているので、読み応えがあり読み甲斐もあると思う。押さえ所であるから、買う本が減って節約になるという心も擽られる。別件、踵底の擦り減ったクラークスのワラビーを、修理することに決めた。二万円近くするが、私の英国愛を示す初めての行動となる。

  • はじめに

    読書というものを、分け隔てなくしてはいけない。そう思い直したのは、著者の性質を分別しなくては、いくら読んでも世界が整理されないためだ。私は、どうしてそう言ったのか、を日常会話でも弥に気にするものだから、読書しても長くは読めず、とある言い回しで支っかえては歩いて考えまわる。そうやって読書してきた気がする。

    知りたいという思いは然程無く、専門的にやろうと追い従く野心もない、庶々民然の読者である。深く追究しない代わりに、理解のまともさには頭心を砕いて読む人である。特徴を挙げるとすれば、

    1.国名か著者名で記事を切り出し、#で書いていく
    2.専門的な用語は日常日本語で翻案して書いてしまう
    3.海外に旅行はせず、国際色の豊かな近所のお店には行く

    主に、支っかえた表現に立ち止まって考えたことを書く部録となる。冷笑や卑屈とは無縁であることは、少し読めば理解されよう。もっと知ろうとの思いの代わりに、見たところを広げようとの思いが与えられたのは、私が平和を作る人、すなわちイエスキリストを主とする信仰に生きているからである。本当ならば聖書で十分満足すべきなので、読書は余計の余興なのだが、世知や世間話を聞き分けるために、見聞を研いでおこうとするのは愚かではない。ただし、入り込みすぎるものでない。信仰が十分なのだから。

    取り挙げる本のわりに、軽い読み物となると予想される。国際協調の後の情報混淆の後の健康生存的、そんな時代に命を享けて良かったのかも知れない。そんな部録になると思う。