• #5

    年に1回、10万円を超える買い物をしている。今年は眼鏡を買った。最近だと週5日は掛けている。鼻当てがなく、小さな丸縁で、古舘伊知郎さんが同じフレームを掛けている写真がウェブに落ちていた。10万円台の買い物を、年に1度しかしないのか、と読む方もおられよう。そう、1回しかしない。数万円台の買い物は、年に10回くらいする。これらは意識して制限してはいないから、私の性格によるものかも知れない。

    この規模の消費しかしないと考えれば、経済社会への申し訳なさが先立つ。それで私にちょうど良いのが、高価な買い物を月に1回程度することなのである。買い過ぎても、買わな過ぎても、世間様に申し訳ないような気がする、ということである。そういう意味では、私には物欲があまりないと言え、ものにこだわりを持ちにくい性質がある上、人に簡単に譲ってしまうから、物好きに言わせれば邪道の二流である。

    普段の私は、半額品を食べ、セールで買った服装で生活している。そう奇抜なものは好まない良識はあるつもりだ。食材は栄養価で買っており、衣類は綿100%しか着ない。安価な良品で暮らすのが最も良いとの考えに至ったのだが、そのためには知識がいる。勉強し研究した報酬だと思うことにしている。例えば、秋なので大根を味噌で煮て食べようと、昨晩1本100円で調達し、若干の醤油と半額で買ってある赤味噌で鶏肉と2度煮ようと思う。貝原益軒の勧めた食べ方だ。

    富んだ人々が貧しい人を避けるのは、わけもない話だ。富や出費が感染するとされるのは、不足するから買うわけで、得られたと思えたものを買う人はいないからである。消費の仕方で人生は幾らも変わる。私の消費の仕方も、老いてくれば変わるだろう。だが、多少の変化だろうとも思う。私は贅沢を覚えなかった。好めなかった。その代わりとなる贅沢は色々知っている。葉を観察すること、雲を眺め形の成り立ちを想像すること、鳥の声から話を推測すること、などなど。私には十分に贅沢な生活に思える。

  • #4

    今回は生活の楽しみ方という話になるだろう。といっても、読者はすでに生活を大いに楽しんでいる方ばかりだと思う。その話ではなくて、今回は、不安を悉く免れた生活にする方法である。簡単である。学問することを勧めたいのである。学問は大学生の時にしかできない活動、ではない。社会人になってからこそ、本格的に学問できる。私は10代の頃からそう考えており、大学では薄く広く講座があって、かつ深めたい分野を専攻できる学部にした。はなから大学で終えるつもりはなかった。

    学問は今や、新しい知見を生めなければ役に立たない、などと思われがちであり、人に伝わらない研究は無意味である、と見做されがちである。というのは、多くの人にとってその学問は疎遠だからだ。知識が膨大な量になり過ぎて、アクセスされず存在が認知されにくくなった。生成知能で補完できるとしても、有名な受賞によって初めて、何十年も前に成果が出ていたんだと感動を新たにするという体である。つまり、学問を仕事にするのは容易いことでない。

    私は趣味で数理科学を10年、実質では20年余り、研究してきた。補助金などいただいたことはなく、成果を論文誌に投稿したこともない。自分でウェブサイトを作って公開したまでだ。幸か不幸か、そのウェブサイトに読者がつき、成果が有効に活用され始めてから、私は責任を負って研究に邁進した。文献を自前で購入し、サーバ費用も自腹で契約している。私の功績は、そのくらい活用しやすい形で提供したということでもある。私の説明の仕方で世間に流布した文句もいくつかある。

    とどのつまり、大学にいられなくても、学問ができるのだ。さらに、新知見を見つけたり、そうしようと思わなくても、学問することが十分できるのである。むしろ、市民として学問することは生活する上での役目でさえある。と言ったところで、すでに会社で趣味で学問が身近な人がこの部録の読者の大半であろうと思うから、言葉を増さないことにしたい。趣味で新知見を見出した珍しい例として、私を認知している方が読者の大半であろう。今は電子で国富論の第1章を緩やかに読んでいる私である。

  • #3

    私の部屋は書斎に使っており、同じような部屋はないと断言できる。照明が8つある。秋口からは蝋燭を、ベランダには椅子を据え、マンションの2階ながら西向きの空を眺められる。今この記事も、夜9時台に薄涼しい夜風を感じながらiPadを膝に乗せて書いている。ラジオをつけていて、いつものパーソナリティの声が聞こえるが、内容は入ってこない。書き終えたら聞き直そうと思う。面白そうな話であることはわかるからである。

    この書斎は6畳で、妻に使って良いと言われ自由に使っているうち、心地よく集中できる環境に仕上がった。いつも書斎にいると、多くのことを省略し、より多くの思考を持つ余裕が生まれ、いつまでも思うように安らいでいることができる。自分に良い部屋だ。客観的にも美しい部屋だと思うので、別サイトで写真に撮って公開しているが、8千人の読者がいるようである。

    インテリアはIKEAがほとんどで、価格も安価なものがほとんど。私は高価すぎるものを持ち合わせることができない。例えば、鞄は2千円がせいぜいと思うので、1万円台なら大事にできるが、2万円を超えてくると、自分には似つかわしくないと思い重荷となってしまうため、買ってもすぐ売りに行ってしまう。反対に、本は3千円するものだと思っているので、1万円を超える本は何冊も買ってきた。

    社会生活で不足するものが部屋にある、という法則があるようだ。私の部屋にはすっきりした幾何学的デザインと、哲学や科学や文学など敬遠されがちな本がある。私はこれらが好きなのだが、これらを好きな人はあまりいない。幸い、私の知人には関心を持つ人が多い。だから、それらの話題で喜んでくれ、関係がうまく繋がる。社会はうまくできていると思う。もので欲を満たす人の格好は簡単だ、流行のものしか身につけない。私はそうは成れなかった。今夜も夜風が眠りに誘う。

  • #2

    ありがたいことに、私には人が絶えない。多くは女性である。年齢は色々で、長く続く方も少なくない。かっこいいと言われることもあるが、自分には余りあると思う一方、理由は単純な心がけのせいだとわかってもいる。と恥ずかしい話になるが、今回は他意なく書こうと思う。断っておくが、私はつむじはげが広がりつつある40歳の中年男にすぎない人間である。

    その単純な理由とは、人のしないことだけをしよう、とずっと考えてやってきた、ということである。考えの水準だけでなく、行動のあらゆる面においてである。例えば、割引品で生活する「割活:わりかつ」をもう1年以上やっている。割引になるのだから、買う人がいない。つまり、割引品を使う人は珍しいのである。割引野菜を食べる人は少ないのだから、そうやってできた身体や体調は自然と珍しくなる。

    また、衣食住知足の中で、衣服についても、私はもう1年以上服を買っていない。昨秋、半額品を5年分は買い貯めたからである。コットン100%の肌着や白Tやニットやパンツを買い、それらを愛用している。肌に優しく、寒暖差も過ごしやすく、洗濯にも強い。綿に勝る繊維はないと思うのだが、そう知っている男性はあまり多くない。化繊のせいで敏感肌用の化粧水を買い溜める人もまだいらっしゃるようである。

    私は自分の思うように行動する人だ。もちろん自分の範囲を超えない分別はある。思うことを形にでき、言葉に記録でき、無いものを必要に従って作り出せる。例えば「衣食住知足」という言葉を作り出して使ってしまえる。足は移動すること、私には歩くことである。歩くのが大好きで、どんどん行ってしまえる。人のやらないこと、誰も考えなかったこと、世界で作られていないこと。ただ珍しいことを形にする習慣があるため、私にかっこいいという言葉が投げかけられるだけであると考えている。これからは年齢の割に節度を持ち、言動を慎んで生きようと最近考えている。

  • #1

    最近、私の住んでいる街に、恋人や夫婦で水入らずのうちに歩いている光景をよく見かける。おそらく、景気が悪くないから、というのは大きな要因だと思われるが、単純に、文明が飽和せんとするほどだということが背景にあろう。つまり、一人で過ごすのも良いが、ずっと一人でいるより二人で暮らす方が無論良いとのことだろう。これはコヘレト4:9-12にある。

    私たち夫妻は、日本の一般的な夫婦からは、やや外れている。昭和的な団欒はないが、平成的な不和はなく、令和的な多様な夫婦の中に回収できる一夫妻ではあろう。特徴は端的に、互いに何も束縛しない点に表れている。普段少しも一緒に過ごさないのである。帰宅出発や就寝起床の挨拶はする。それで十分という気がすごくする仲なのである。

    そもそも妻はキリスト者で勤勉家であり、精神的にも経済的にも完全に独立した方だ。私が遅れて独立できたのも、妻が先に完全独立した人間だったからだ。結婚前からそうであったから、私は妻の生き方に多くを教わった。そういうわけで私は、私個人の少なめの収入を好きに管理でき、妻は趣味で自炊しないので、私は冷蔵庫と台所を自由に使え、毎日満足の域を出ないのだ。

    結婚は一緒に暮らすことでもない。別に暮らしているからといって別れなくてはならないのでもない。互いの気持ちが少しも変わらないなら、むしろ最も快適な結婚生活になる。妻も私も熱中没頭する趣味がある。各々で経済的に自立している。子供や車を持たないことや、住居に関し意見が一致しているため、諍いが起こらない。私はただ気持ち良い生活がしたかった。妻と結婚し、全てが叶った。思っていた天井を遥かに超えてきた。

  • #0

    このドメインで部録を閉じてから2ヶ月が経った。だが、サーバのデータによれば、まだ毎日のようにアクセスがある。その閉じた部録はたった2ヶ月の公開だったが、計4千人の読者がつき、ページビューは延べ10万に達した。これを私は、まだ読み足りない読者がいると解釈することにした。そこで、趣旨は変えるが、私の生活について書くことにしようと思う。推しがいるとして、その感謝の気持ちからである。

    何を書くかと考え、私の専門は何かと問うた。数学はアマチュアだ。物理は専攻できなかった落第者にすぎない。文学はゆっくり味わう人なのでそう記事にできない。そこで、私は考えた。生活科学が私の専門だ、と言い張ることにしようと。確かに高校生のころから今に至るまで、関心を持ち続けている領域を一言で表せば「生活」になる。そして、生活について科学するなら、需要が高そうな内容になるだろうと。

    生活に関心があるなら、生活にしか関心がない、とは言えない。なぜなら、あらゆることに関心がある、という意味になるからである。それで、福澤諭吉が述べたように、人の上に浮くような贅沢も、人の下を這うような窮乏も、生活に関心が足りない人が営む生活にすぎない。このあわいをなだらかに安定して暮らすには、生活を学問するのが良いと思われる。生活にまつわる変数の変化を、常に操縦できるからである。

    この書き物は自由に複製していただいて構わない。動画にしたり商業出版したり、生活に取り入れていただけることで目的は達せられる。この文言は私の書き物の常套句になっているが、私にはやはりどうにも出版するつもりが決まらない。メディアが怖く、有名になることを恐れてしまう。性格的なこともあるし、半生を慎重に過ごしたために慣れてしまった。私の読者はもう聞き飽きたろうが、満足してくださることと思い筆を執る。