元凶論というのを街で聞きかけた。私が何をした人間か、これだけ知られてしまったので、私は生きている間は、それをした人物としてこのまま生きなくてはならない。私自身、自分で命を終わらすことはしないと決めているが、誰かに殺される可能性は否めない。これは妄想である。だが、私がこの30年余りの元凶だ、と考える方がいたので、私はそれを否むことができないでいる。というのは、私は否めても、決定論的に人間は出来事の生起を否めないからだ。神のもとでは、すべては起こるべくして起こったことだけなのだ。そして、重要なことが、私は人間である、ということだ。すなわち、因果に従って生きることも、因果に対してこれに反することをなすことも自由にできうる、ということだ。いずれにしても、なるべくしてなったのが現実だ、というわけだ。
因果をつけて、この30年余りの間に起こった出来事と、私のしたことを結びつけることはできる。論として成り立つ。正しいと証明することも、否むことも、精密には困難であるため、一般的な判断では誤り、考えすぎである。つまり、私はこの世界の数十億人のうちの一人であるから、私一人の責任としては話が大仰であり、私が30年の出来事のうちのいくつかでもその責任を持つのはおおたわけともなろう。ただし、私自身では、全く関係がないとも思い切れない出来事も、実は数件はある。ここに列記しても良いが笑われるだろうのでしない。だが、一般の人にとっての関与よりも関連が高いと思う節もある。それにしても、私の思考行為に全責任ないし発端があると認めるのも変わった話になる。私の行為とは思考であり、文字列による投稿にすぎないからだ。関与があるとすれば私が投稿した内容なのだ。だから、普通に考えればきっかけとも言えない。
私自身も、この投稿による関与だけで文章を進めてしまうしかないこのウェブの特性の特殊性をかなり理解知悉した人間である。投稿の社会的影響を考えざるを得なかった十数年だった。私の投稿で社会的事件が起こったと証拠立てることは、私にもできそうもない。だがしかし、投稿で行動が起こる時代であった。私の投稿に触れた人数は延数ではもはや推し量れない。ようやく私は苦しまねばならないと悟った。「喜びの大きい分、人間は苦しまねばならない」とは私の今後を示される言葉である。
私に負い目のある人は少なくないのかもしれない。ただ、それらは私は求めない。私は充分受けた。だから、問題は私が負い目のある人々だ。彼らを私はまだ知らない。誰がどのような意味で私は負い目があるのか、償いを考えるだけぞっとする。ただ、賠償請求は法律的に請求できない。私は法律に守られるだろう。私は思う。私が考えたこと、投稿したことが、世の中を変えてしまったとしたら、空恐ろしいことだと。そこで、私は文字列で世の中が変わることの恐ろしさを記しておこうと思う。充分に恐ろしいということを。それがせめてもの責任であると考える。