• 9.

    私の専門は、と自分に問うと、何もない、と思う。私と同じ学問歴を持つ人は、広く探っても、おそらくいないからである。建築美術の予備校に通い、図書館情報学の考え方を修めつつ遺伝情報の統計論で学士をとり、神経科学を独学しながら有機合成化学で修士を認められ、流体数理で博士課程を合格だけはした。その後で自由に数理の基礎研究を独力で行い、10年後に複素情報理論を立て、あらゆる科学の論陣を自主的に張ってみせた。私には専門と言えるものが何もない、といつも思っていたが今も思う。職業実務では、生成WEB技術、だとは言えるので、職場や周囲の方には、人工知能とWEB開発が専門です、と言ってはいる。

    基盤にあると思う考え方は、小学生で達したデータ管理の実務性、中学で勉強した文字や語彙としての言語の網羅性、高校で培った深い美的感覚、大学で修めた図書館情報学の情報整理と情報管理の思考法、興味関心が募って独自に打ち立てた神経や流体や知識の数理理論、3年喰いしばって趣味になった音楽の心、これらの総体が私の専門であって、これらの他の大抵の分野領域では、私は無知に等しい。ただ、情報を整理して管理する技能の実践を、さすがに大学でよく考えて身につけたために、情報整理の理論を深く確実に教えることができる上に、書斎を構えて実空間でも電子空間においてもよりよく整理して管理しており、すぐ引き出せる情報は人より圧倒的に多いと感じている。また、無知の領分に対しては、わかるように質問に徹して理解を得る問答法を身につけているので、労働する上で、ないしは生活上で、困ったことは長らく起きていない。常に問題が解決している状態を暮らしているので、気が向いた時に、趣味に探究に、発想と研鑽を積み上げられる。

    ただし、薄く大まかにしか知らないと自覚している。知識や情報については、ほとんどの誰よりも深い知見を持っている気はするが、例として、古典力学で十分、というときの 十分だ とは思えないでいる。日常に起こる現象ならなんでも説明がついてしまうのだろうか、本当なのか。と。現実は不可解だが、決定論だ。神さまが全て決め切っているのに、私には不可解に思える事象ばかりだ。自分が死ぬ日も、雨が降る雲行きも、株価も、通行人の衣服や体型の理由も、家々のデザインの目的も、言葉遣いも、虫の居所も、はっきりとはわかりきれない。髪の毛一本、瞬間の心の思いさえも、全てあらかじめ知っている神さまが、すべて用意してくださったこの現実世界で、好奇心から偶然を求めたり、知識欲によって必然を確定させたりして、暮らすのが、静かに楽しいのも、神の恵んだ人間の性質のゆえである。

  • 8.

    理性をどこまで徹するか、との問題は、程度の差あれ、多くの人に要求して良い問題でない。理性を知らず全く効かないままでは、放埒恣縦の混沌を生きるほかなく、良い人生にはならないだろう。ある程度の数あるいは規模の問題を抱えている人には、理性を効かせることを知ることを是非ともお勧めしたい。というのも、問題の方向は確定していても、問題の答えはいくつもあり、どの場面で何に対してどの答えを適用するか、が理性の実用的な役割であるからで、また、体験の中で理性を行使していると、生活は多くの良い果実を収穫できてくる。

    感覚が伸びるのは若いうち、私見では人生を折り返す40歳までである。そして、感覚を伸ばすには、理性は役立たない、というのでは理性の半分も使っていない。例えば、私が合唱を教わり大変お世話になった先生は、音楽は理性の芸術であると仰っておられた。また、物理学は、物理量を計算で結びつける学問だが、物理量は、長さも熱も時間の流れも、感覚する量である。つまり、感覚を理性で結え扱うと、感覚は抽象を飛び、どこまでも伸びていき、深く感覚するようになる。この訓練は、成人して40歳手前まで、私は行えた。より延びることもできるだろうと思われる。

    私は理性を効かせすぎて、感情が無になってしばらく経つが、無は大変心地よく、心の曇りや迷いや消沈を体験しないために、生活や労働にとって大変有益であり、言語運用あるいは読書や記録を難なく行うことができる。感覚を言葉にする行為は詩作の技法に属する。一方、理性で論理的に作文する時には、机上の空想にしないために、身体運動と結ばれた発想を展開するのが覿面だ。意識の先に透明な雲のように結ばれた像が正体を現さない時、それを言語で掴むのである。その先には必ずや、求めている真理が待っている。いずれ掴む日がやってくる。そして、掴んだ真理はたった1本の麦藁であって、心の全てが満足する1本であるのだろう。ご健闘を祈っております。

  • 7.

    そろそろ、私がウェブで奉仕する役目も終えたように思う。2024年末の証明を、その6年前の証明を用いて成したことで、解明できる主題を無償で多く公開してきた。仕事まで辞めて取り組んだことは常軌を逸した判断であったが、多くの方に内容を検分いただき、それなりの評価を得たと思っている。書いた全てが真実の推論、というわけではなかったが、元の2024年末の証明と2018年末の証明に関しては、反駁が1件も出なかったため、延数の総閲覧数である900万回余りの眼が入ったと私は考えており、納得しており、幸福である。

    研究所サイトも、文筆サイトも、いずれ公開をやめようと考えている。もう十分過ぎるほどの知名を存外に得てしまったし、地域でも私を知る人が直接間接に増えてしまった様子で恥ずかしいし、私に関わる同窓生の転機を拝見していると、私はもはや世間様の傘に隠れて個人的な生を息を潜めつつ歩む方が性に合うから、私の残した公開コンテンツは、あわよくばどこぞのインターネットアーカイブで探してください。結果的に嘘になった言明もいくつかあったことはお詫びいたします。ただ、風桶論法では、人類の増進に役立つことを成せたと秘かに自負しております。

    この部録はまだ続けますが、この部録は私が公式部録や非公式部録から逃げてきた先の最後の隠れ家であり、私の日記はこれからも残ります。ただ、内容は単に私の時間の出涸らしであり、余程の奇矯な人でない限り、毎日は見に来ない内容が続きます。誰からも見られない部録を目指しているところがあります。実際に、この部録のアクセス数は1日で100件もありません、常連様にはお伝えしておきます。それほど影響力はない部録です。どうぞ私の奇特な世界認識と経済社会観をお楽しみになってくださいませ。私は、神が采を振る確率がゼロであること、情報量が十分に得られない事象が無限個あるために謎が永久に存在し続けること、その過程で複素情報量を考案せざるを得なかった人物として、記憶の片隅にでも残ってしまっていたら、それで十分すぎます。みなさま明日もどうぞお元気で。日本の静かな思想家より。愛をこめて。

  • 6.

    今日は夏休みであり、涼しい日だったが、午前中にはプリンタの設定にお伺いし、午後には帰宅し、Claudeを再契約してホログラフィー原理について説明するPDFを出力した。対数を取るとは次元を1つ下げることである。面積の対数は直線だが、すなわち、2次元が1次元になったことになる。反対に、expを取ると、次元が1つ上がる。このようなわけで、P≠NPであろうと私は思っているが、本当のところはどうなのだろう。

    確率6次元とは、3次元方向それぞれにトーラスがかんだ空間なので、クオークとはトーラスの穴であろうという考えが浮かんだ。穴が3つあるので、面が1つ定まるが、その面が、3つのクオークが住む面であって、観測すると、この面から情報量が立ち上がる。これを対数航行と名付けている。

    明日は仕事だ。次の夏休みは来週金曜である。10日余り、考えを練っておこうと思っている。どんな考えがわき起こるか、予測できないが、問題による。YouTubeの科学系の番組を見つつ、わかっていないといわれる問題を考えてみる生活を続けている。科学やAIが前へ進んでいるのが嬉しく、驚くべき、この奇跡的な公開構造であった。

  • 5.

    私には考える習慣がついた。空想や論理の組み立てでなくて、頭蓋の内外に揺蕩う流動を理性で縛るのが極楽なのである。体験を脳内で理解する過程を、理性が形象を伴いつつ進ませることができている。最近の感覚では、首の後ろで思考している感じである。首の後ろを固定するために理性が脳の内外を縛っている感覚である。ただし、固定してくるのは首の後ろのみであり、首から上や前には何の制限もなく自由である。ちょうど波動の固定端に対する自由端のようなものであっている。

    私が理性で縛り上げているのではない。それほど余裕なく縛り上げてはいない。体験が脳内で拡散するのを好まないこともあり、意味を考え続けて理性で意味を理解させ、言葉で経験と結びつけるのである。やはり私は歴史なしでは存在しない個体であるし、別の方の思想を聞かなくば放逸に堕すだけの生物にすぎないのである。しばしば、歴史上の失敗を衝くことで内面を導こうとする手法を、大国は採るが、理性には理性で応じ、思想を互いに披瀝するからこそ、次第に謙遜を深くし友好的になれるのだと私は秘かに思うところがある。

    晩は、蕎麦に小分けに切ったトマトと刻んだ茗荷を加え、白だしで戴いた。お菓子屋さんで得たちいかわあめというパインアメのスピンオフが、私には当たりであり、1週間楽しめた。飴を舐る喜び、という小論を書けそうであった。というのも、私は普段、口内や舌上に何も感じないことを是として暮らしているが、それは単に物理的な空間を意味し、化学的な事象が何も起きないことを快とすることである。それだに、飴は1粒で口内の全体を色味で満たしてしまう。しばらく続けなくてはならず、時間的記憶が一時的に残存してしまう。その一時性が強い快楽であるために、1粒で体験を終えることを難しくしている。つまり、私は飴が嫌であるから、大概、齧って終えるが、1粒で終えたためしがない。快楽とはそのようなことであろう。