省みると、私は賢い人には関心がほとんど持てない。私が賢い人に興味を持つのは、賢くない面を見た時である。私の観測によると、どんなに賢く社会で振る舞える人であっても、賢いと言えない面が観察されるので、結局、私が関心を持てない人は、付き合いが充分長ければ、いたためしがない。一方で、私がたやすく関心を持つのは、一般的な人物、才能のないとされる人物、愚かな考え方をする人物である。一般的な人は常識に守られているので、常識をたくさん聞ける。才能のないとされる人物にも才能はあるもので、才能が見つかったときに私は喜びを感じる。愚かな考え方をする人であっても、生活できている以上、どこかで賢さを発揮している場面が必ずあり、大抵の場合、社会であまり見かけない賢さであるので、社会で評価されていない賢さを見つけられたときがものすごく楽しい。このような理由でも、私が関心を持てない人はまずいない。
私が人工知能に関心を持ったのも、大学で知性や知識を科学する視点を養えたことが大きかった。当時は、知性も知識も情報も、科学ではよくわかっていないとするのが通説だった。私は自分なりに探究し、一般的な理解まで達せたため、研究所サイトに公開している。こうして振り返ると、私は知恵に関心を持ち続けている。知恵を見つけること、知恵を表す方法を練りに練ること、知恵を聞き比べること。日曜礼拝には必ず参加するのも、聖書に関心がずっと続いているのも、かといって聖書をあまり読もうと思えないのも、知恵について深く長く単純に考えようとしてきたからであろうと思う。
昨日、商店街で自分に喝を入れ続けて歩いていた中年の女性がいた。自分の精神を鍛え直しているようだった。私の勧めでは、教会に行くのが良いと思う。自分の意気や力だけでは、精神を悟らせ、自分を捨て去ることは、できない相談であり。必ず、自分以外の力に全て委ねた結果、すなわち、信仰の力である。知恵を付けたかったら、本を読むのでも良いのかもしれないが、自分で知恵をつけても自分で考えるようにはなれないのが人間だろうと。誰かの賢人の知恵に従って安楽に暮らすのも良いだろう、だが、自分で知恵を発想して生み出し、社会に問い、世の中の役に立つ所業は、信仰の結果である。こう書いたとて、教会に行って自分を悔い改め切れる人は、そう多くない。いつの世でもそうであるそうだ。私のように、若くして大きく失敗したことがある人が、減っているからだろうか。