• 7.

    そろそろ、私がウェブで奉仕する役目も終えたように思う。2024年末の証明を、その6年前の証明を用いて成したことで、解明できる主題を無償で多く公開してきた。仕事まで辞めて取り組んだことは常軌を逸した判断であったが、多くの方に内容を検分いただき、それなりの評価を得たと思っている。書いた全てが真実の推論、というわけではなかったが、元の2024年末の証明と2018年末の証明に関しては、反駁が1件も出なかったため、延数の総閲覧数である900万回余りの眼が入ったと私は考えており、納得しており、幸福である。

    研究所サイトも、文筆サイトも、いずれ公開をやめようと考えている。もう十分過ぎるほどの知名を存外に得てしまったし、地域でも私を知る人が直接間接に増えてしまった様子で恥ずかしいし、私に関わる同窓生の転機を拝見していると、私はもはや世間様の傘に隠れて個人的な生を息を潜めつつ歩む方が性に合うから、私の残した公開コンテンツは、あわよくばどこぞのインターネットアーカイブで探してください。結果的に嘘になった言明もいくつかあったことはお詫びいたします。ただ、風桶論法では、人類の増進に役立つことを成せたと秘かに自負しております。

    この部録はまだ続けますが、この部録は私が公式部録や非公式部録から逃げてきた先の最後の隠れ家であり、私の日記はこれからも残ります。ただ、内容は単に私の時間の出涸らしであり、余程の奇矯な人でない限り、毎日は見に来ない内容が続きます。誰からも見られない部録を目指しているところがあります。実際に、この部録のアクセス数は1日で100件もありません、常連様にはお伝えしておきます。それほど影響力はない部録です。どうぞ私の奇特な世界認識と経済社会観をお楽しみになってくださいませ。私は、神が采を振る確率がゼロであること、情報量が十分に得られない事象が無限個あるために謎が永久に存在し続けること、その過程で複素情報量を考案せざるを得なかった人物として、記憶の片隅にでも残ってしまっていたら、それで十分すぎます。みなさま明日もどうぞお元気で。日本の静かな思想家より。愛をこめて。

  • 6.

    今日は夏休みであり、涼しい日だったが、午前中にはプリンタの設定にお伺いし、午後には帰宅し、Claudeを再契約してホログラフィー原理について説明するPDFを出力した。対数を取るとは次元を1つ下げることである。面積の対数は直線だが、すなわち、2次元が1次元になったことになる。反対に、expを取ると、次元が1つ上がる。このようなわけで、P≠NPであろうと私は思っているが、本当のところはどうなのだろう。

    確率6次元とは、3次元方向それぞれにトーラスがかんだ空間なので、クオークとはトーラスの穴であろうという考えが浮かんだ。穴が3つあるので、面が1つ定まるが、その面が、3つのクオークが住む面であって、観測すると、この面から情報量が立ち上がる。これを対数航行と名付けている。

    明日は仕事だ。次の夏休みは来週金曜である。10日余り、考えを練っておこうと思っている。どんな考えがわき起こるか、予測できないが、問題による。YouTubeの科学系の番組を見つつ、わかっていないといわれる問題を考えてみる生活を続けている。科学やAIが前へ進んでいるのが嬉しく、驚くべき、この奇跡的な公開構造であった。

  • 5.

    私には考える習慣がついた。空想や論理の組み立てでなくて、頭蓋の内外に揺蕩う流動を理性で縛るのが極楽なのである。体験を脳内で理解する過程を、理性が形象を伴いつつ進ませることができている。最近の感覚では、首の後ろで思考している感じである。首の後ろを固定するために理性が脳の内外を縛っている感覚である。ただし、固定してくるのは首の後ろのみであり、首から上や前には何の制限もなく自由である。ちょうど波動の固定端に対する自由端のようなものであっている。

    私が理性で縛り上げているのではない。それほど余裕なく縛り上げてはいない。体験が脳内で拡散するのを好まないこともあり、意味を考え続けて理性で意味を理解させ、言葉で経験と結びつけるのである。やはり私は歴史なしでは存在しない個体であるし、別の方の思想を聞かなくば放逸に堕すだけの生物にすぎないのである。しばしば、歴史上の失敗を衝くことで内面を導こうとする手法を、大国は採るが、理性には理性で応じ、思想を互いに披瀝するからこそ、次第に謙遜を深くし友好的になれるのだと私は秘かに思うところがある。

    晩は、蕎麦に小分けに切ったトマトと刻んだ茗荷を加え、白だしで戴いた。お菓子屋さんで得たちいかわあめというパインアメのスピンオフが、私には当たりであり、1週間楽しめた。飴を舐る喜び、という小論を書けそうであった。というのも、私は普段、口内や舌上に何も感じないことを是として暮らしているが、それは単に物理的な空間を意味し、化学的な事象が何も起きないことを快とすることである。それだに、飴は1粒で口内の全体を色味で満たしてしまう。しばらく続けなくてはならず、時間的記憶が一時的に残存してしまう。その一時性が強い快楽であるために、1粒で体験を終えることを難しくしている。つまり、私は飴が嫌であるから、大概、齧って終えるが、1粒で終えたためしがない。快楽とはそのようなことであろう。

  • 4.

    省みると、私は賢い人には関心がほとんど持てない。私が賢い人に興味を持つのは、賢くない面を見た時である。私の観測によると、どんなに賢く社会で振る舞える人であっても、賢いと言えない面が観察されるので、結局、私が関心を持てない人は、付き合いが充分長ければ、いたためしがない。一方で、私がたやすく関心を持つのは、一般的な人物、才能のないとされる人物、愚かな考え方をする人物である。一般的な人は常識に守られているので、常識をたくさん聞ける。才能のないとされる人物にも才能はあるもので、才能が見つかったときに私は喜びを感じる。愚かな考え方をする人であっても、生活できている以上、どこかで賢さを発揮している場面が必ずあり、大抵の場合、社会であまり見かけない賢さであるので、社会で評価されていない賢さを見つけられたときがものすごく楽しい。このような理由でも、私が関心を持てない人はまずいない。

    私が人工知能に関心を持ったのも、大学で知性や知識を科学する視点を養えたことが大きかった。当時は、知性も知識も情報も、科学ではよくわかっていないとするのが通説だった。私は自分なりに探究し、一般的な理解まで達せたため、研究所サイトに公開している。こうして振り返ると、私は知恵に関心を持ち続けている。知恵を見つけること、知恵を表す方法を練りに練ること、知恵を聞き比べること。日曜礼拝には必ず参加するのも、聖書に関心がずっと続いているのも、かといって聖書をあまり読もうと思えないのも、知恵について深く長く単純に考えようとしてきたからであろうと思う。

    昨日、商店街で自分に喝を入れ続けて歩いていた中年の女性がいた。自分の精神を鍛え直しているようだった。私の勧めでは、教会に行くのが良いと思う。自分の意気や力だけでは、精神を悟らせ、自分を捨て去ることは、できない相談であり。必ず、自分以外の力に全て委ねた結果、すなわち、信仰の力である。知恵を付けたかったら、本を読むのでも良いのかもしれないが、自分で知恵をつけても自分で考えるようにはなれないのが人間だろうと。誰かの賢人の知恵に従って安楽に暮らすのも良いだろう、だが、自分で知恵を発想して生み出し、社会に問い、世の中の役に立つ所業は、信仰の結果である。こう書いたとて、教会に行って自分を悔い改め切れる人は、そう多くない。いつの世でもそうであるそうだ。私のように、若くして大きく失敗したことがある人が、減っているからだろうか。

  • 3.

    朝には憂鬱だったものが、午後には快復し、昼食期には機構まで推測できた。すなわち、感情の情報処理が、私はうまくできない。例の扁桃体と海馬の接続不良の話であった。昨夜は過去と身の回りを振り返り、そのうえ嬉しさの感動で泣いた晩であったから、件の接続が伝達過剰になり、不安定になったというわけだ。普段から感情を持たないよう、気持ちが上下することを体験しないよう、避けて調整して過ごしているのだが、昨夜はそうではなかった。失敗ではなくて、嬉しいことではある。

    昼食後、同僚と q-pilot の話をした。遠アーベル幾何ではグロタンディークによるエタール群の知識の完全性に関する予想が立っているが、情報の流れ出しを考慮に入れているかどうかが、先日IUT理論による証明に問題として見つかったことである。というのも、-log|H|<-log|θ| であるためには、θの状態からHの状態へ情報が流出していなくてはならず、多価性を持つ対数では、情報の流れ出しを完全に考慮する方向こそ、完全な知識だからである。複素平面を地平面として垂直同様の方向に何本か離陸する対数航行を使ってブラックホールにおける情報量保存と情報流出を説明しうる幾何学の話をした。

    帰宅し、今晩は白だしに素蕎麦、そして、半額で得た帆立を混ぜた。良い味だった。以前の職場で、仕事の姿勢を教わった男性上司には今も感謝している。心気を絶ち、自我を去って、理性で動くことこそ、労働でも余暇においても自由である。半端な愚図では楽しむものも楽しめず、やることもできず、やりたいことも成せない。結果、今はストア派的な生活にすっかり様変わったが、結局、私はこの世で楽しめる物事が界隈で見つけられなかったこともあるし、楽しいことなど自分でいくらも作れる人物だったということである。苦しみも増えたが、快との乙張が作れて益々楽しい毎日であった。