私には考える習慣がついた。空想や論理の組み立てでなくて、頭蓋の内外に揺蕩う流動を理性で縛るのが極楽なのである。体験を脳内で理解する過程を、理性が形象を伴いつつ進ませることができている。最近の感覚では、首の後ろで思考している感じである。首の後ろを固定するために理性が脳の内外を縛っている感覚である。ただし、固定してくるのは首の後ろのみであり、首から上や前には何の制限もなく自由である。ちょうど波動の固定端に対する自由端のようなものであっている。
私が理性で縛り上げているのではない。それほど余裕なく縛り上げてはいない。体験が脳内で拡散するのを好まないこともあり、意味を考え続けて理性で意味を理解させ、言葉で経験と結びつけるのである。やはり私は歴史なしでは存在しない個体であるし、別の方の思想を聞かなくば放逸に堕すだけの生物にすぎないのである。しばしば、歴史上の失敗を衝くことで内面を導こうとする手法を、大国は採るが、理性には理性で応じ、思想を互いに披瀝するからこそ、次第に謙遜を深くし友好的になれるのだと私は秘かに思うところがある。
晩は、蕎麦に小分けに切ったトマトと刻んだ茗荷を加え、白だしで戴いた。お菓子屋さんで得たちいかわあめというパインアメのスピンオフが、私には当たりであり、1週間楽しめた。飴を舐る喜び、という小論を書けそうであった。というのも、私は普段、口内や舌上に何も感じないことを是として暮らしているが、それは単に物理的な空間を意味し、化学的な事象が何も起きないことを快とすることである。それだに、飴は1粒で口内の全体を色味で満たしてしまう。しばらく続けなくてはならず、時間的記憶が一時的に残存してしまう。その一時性が強い快楽であるために、1粒で体験を終えることを難しくしている。つまり、私は飴が嫌であるから、大概、齧って終えるが、1粒で終えたためしがない。快楽とはそのようなことであろう。