読書というものを、分け隔てなくしてはいけない。そう思い直したのは、著者の性質を分別しなくては、いくら読んでも世界が整理されないためだ。私は、どうしてそう言ったのか、を日常会話でも弥に気にするものだから、読書しても長くは読めず、とある言い回しで支っかえては歩いて考えまわる。そうやって読書してきた気がする。
知りたいという思いは然程無く、専門的にやろうと追い従く野心もない、庶々民然の読者である。深く追究しない代わりに、理解のまともさには頭心を砕いて読む人である。特徴を挙げるとすれば、
1.国名か著者名で記事を切り出し、#で書いていく
2.専門的な用語は日常日本語で翻案して書いてしまう
3.海外に旅行はせず、国際色の豊かな近所のお店には行く
主に、支っかえた表現に立ち止まって考えたことを書く部録となる。冷笑や卑屈とは無縁であることは、少し読めば理解されよう。もっと知ろうとの思いの代わりに、見たところを広げようとの思いが与えられたのは、私が平和を作る人、すなわちイエスキリストを主とする信仰に生きているからである。本当ならば聖書で十分満足すべきなので、読書は余計の余興なのだが、世知や世間話を聞き分けるために、見聞を研いでおこうとするのは愚かではない。ただし、入り込みすぎるものでない。信仰が十分なのだから。
取り挙げる本のわりに、軽い読み物となると予想される。国際協調の後の情報混淆の後の健康生存的、そんな時代に命を享けて良かったのかも知れない。そんな部録になると思う。
コメントを残す