社会全体の均衡をとるために、少数の人々が多数派と異なる思想を持ち行動することが、全体にとって要となることがある。おおかたが絶望している時に希望を振り撒き、おおかたが喜んでいる時に悲しむ人。大多数が貧しく困っているときに大きなことを成し、多数派がうきうきして多くを買うときにほぼ何も買わない人。こうした人々が、社会全体のスパイス、特効薬、潤滑油となる貴重な人々である。いわゆる賢い人々はこのような姿をしている。そのような人々を時代が確実に擁していれば、その時代は有望である。
個人の満足に置かず、社会全体の繁栄に満足を覚える人物である。産業を興したり、発明発見を地道に求めたり、状況をみて思想を提示したりする活動は、社会を動かす。一般に、社会の流れが停滞する原因は、人々が飽きたり、行動が制限されなすぎたり、上限がなく無限にあると信じ込まされた場合に起こりやすい。だから、永続することや工夫することや有限であることを教える人は貴重な存在であり続けている。そして今や、永続性、上限性、有限性は、人間が自由に行動する条件として広く知られたため、社会活動の停滞は当分起こりそうにない。これはうまくいった例である。
それでも苦難を過ごす人たちがいる。行動できにくい身体的故障の場合、金銭的にあまりに貧困なため行動選択ができにくい場合、知識や能力が生まれながらに不足しているために行動の構想がうまくできない場合。これらの人々には支援する人がついていれば、本人が活動によって自由を感じることができる。訓練的に行動経験を繰り返して積めば、普通以上の結果と先行きを体得することもできるだろう。条件次第で活動は多く広がれる。時代でそれが可能になったからである。
思想の達成により、人間が活動の流れを停滞させなくなったのなら、高騰株価のように、活動の指標となる数値は伸び続けるだろう。人は個人で満足しても、飽きずに新しく見つけてくるからである。活動を飽きずにし続けるのが人間だとも言える。よって、活動する社会条件が損なわれない限り、人間は繁栄を持続できるのである。制約は活動を生む。資源や倫理上の制限が話題に上っているが、制約が行動をなしやすくすることを踏まえ、ありがたく議論を進めてかまわない話題なのだ。
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