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知るとは、同時に作り変わることだ。知る前までの自分が、知ったことで変わることだ。これを学問知や勉強や情報や方法論だけにとどめておくのはもったいない。人のことをあなたはどれほど知っているのか。知らないのである。両親のことも兄弟のことも、妻や子供のことも、知っていることは本当に少ない。ため息が出るほど知らない。しかし、それでいいのである。生活は進んでいけるのだから。

自分のことを知って欲しいと思う気持ちは欲の一種だが、知って欲しいように知ってくれる人はいない。いるとしても、自分の全てを教えてそれを自分と同じように理解してくれる人はいない。教えて理解する、という枠組みを学校の試験のように考えてはもったいない。一字一句正解を用意した自分に関する試験を作って正答率を競わせる王国でも作りたいのか。そんな自分に関心を持つ人など、冷静に考えていないだろう。

私は人になんとも思わないように過ごした時期が長くある。中高生の時、隣の人のことをあらゆる点で断定できないことを痛いほど知ってから、自分についてもよく振り返ると何もわからないことも知り、文学作品を理解したと思うことも、哲学的語彙を理解したと思うことも、なくなった。自分で作ったものなら自分で完全にわかるだろうと思ったものだが、人に意図と違う感想を持たれるたび、自分で生んだものさえも人には意図と違ったように映るものなんだと半ば諦めたものだった。

そんな思春期を送れたのは幸いだった。理解している私と同じ理解に達する人はいない、と何においても常に思える。だからか、人の話をよく聞ける。どうせ同じ理解になど達しもしないし、達する必要もない。私の勝手な理解も誤謬になるから記憶もしない。それよりも、多くの人に認められた確実な理論と思考法のほうを読み磨いている。そうすれば、人やその話を過去のより多くの人がした理解の仕方で理解できる。自分の理解にこだわらない。独特から抜け、歴史的に多くの理解が得られる次元へ進むことが、垢抜けることである。

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