#17

勉強は、こそこそやるもの、と思う節が私にはある。先生にも、友人にも、親にも秘密であり、ばれたら終わりだ、と。成績は人に知られてはならない、なぜなら成績は自分を構成するほんの一部分でしかないからだ。また、自分が何に関心を持っているか、人に知られないようにする。成果は一人で出すものだからだ。ただ、これはさすがに今ではあまり意味をなさなくなった。今の勉強事情はよく知らないが、勉強とは、こそこそ秘密裏にやってのける工作にすぎないと今でも思う。

そのせいか、私を努力家とみなす人は稀で、むしろ才能のある人だとしかみなされたことがない。だが、重要なことに、私は自分がなんの才能もない人物だということをよく知っている。本当に何もできない。普通の人よりできない。10代の頃から、人と比べてできることもほぼ何もなかった。ずっとそう思っているので、勉強には精を出したし今もしているが、私を勉強家と言った人はいない。というのは、過剰なことに、私は勉強をひそひそ行う上に、勉強の成果も人に披露することもひそひそこっそり行っているので、誰も私の成果の全貌を知らないのだ。

普通に勉強と思われることを、なんとなしに取り組む才覚は、あるとは思う。本が好きな人は自分から買って読むと思うが、手につけたこともない分野の学術書を読める人はそういないだろう。例えば、文科系の人が素粒子物理学や宇宙生物学の専門書を手にして、それを理解するまで熱心に読む人はあまりいそうもない。だが、私はそれらの本だけでなく、批評評論本や哲学の本までも、聞き齧った知識に満足せず、自分で理解し考えられるようになろうと読み砕く習慣が20年以上ある。おかげで考える道具は揃いに揃った。

こうしたわけで、自分のものにするには、人に秘密に獲得するのが最も良いと思う。ある時突然、持っていることを示せる。出し抜くとも言えるので、卑怯な手かも知れない。だが、知識である。人に知られていないことが知識の売りなのだから、組み合わせて提示する術こそ人に珍しがられるのだ。私は今日も一人で、飛行機に乗って旅行しに行く。電子書籍で人が読まない本を、勉強がてら読書しつつ。私がそうしていることを、誰も知らない。人生は、人に知られない分だけ、価値が高まる。神には全て知られている。知られるのはそれで十分である。

コメント

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です