私にはいくつか大きな問題がある。そのひとつが、食にこだわりがないことだ。おいしさに対するこだわりが何もない。理由は単純で、何を食べても充分食べられるから。つまり、私は食べ物を、おいしさで測らずに、食べられるかどうかだけで測っている。食べられれば食べ物として充分である、と考えているのである。そして、この考えに止まっていられるわけは、食べられるものは何を食べても大体おいしいと思うのだ。まずいものは、食べられないものか、調理に酷く失敗したものでしかありえない。
食材を栄養で食べている。大雑把だが、毎週毎日、計算している。なので、おいしい広告や、評判のお店や、お腹の減る話には、あまり興味がなくて、それらを見聞きしても、何かを食べたいと思うことがない。これを問題と捉えるわけは、私には、食べたいと思う気持ちが湧かないためである。食欲を、食べられる力能と定義すれば、私は不自由なく食べられているのだから、食欲は常時ある。だが、私はこれが食べたい!と思うことはない。これを食べに行く!とか、これ食べたいから買う!という思いに駆られない。それゆえに、人と食べに行けない。
食べるとは、命懸けの行為だ。消化しなくてはならないし、一時的にでも養分として自分の一部にしなくてはならない。つまり、自分の一部にするための選択が、食べるものを決める際に横たわっているのだ。だから、私は食べることを簡単には考えられない。食べ過ぎるなんて考えない。年老いるほど食べ過ぎることが死因になることを知っているからだ。反対に、食べな過ぎることも意図的に避けている。働くことも動くことも思うようにできないのなら、生きていないも同然だと考えるからだ。
最近、ようやく太れてきた。あえて太る食べ方をしてきた成果だ。量は食べないのだが、眠る前に果物を1サービングくらい食べたり、食後に米菓や豆菓子を食べたり、朝食を抜いたりしてきた。体脂肪率が1年で2倍近くなった。仕事の持久力が出てきたことは、内臓脂肪の保持によるものであるから、大きな成果である。これからはさらに量を食べなくて済むような食生活をとりたい。量を減らしたい。たまに食べるとおいしいよ、という広告だけは実際的であると今も信じる節がある。
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