今月から正社員になり、意識が整ってきたのを感じる。非正規雇用で13年間過ごしてきたが、その間にやり遂げたいことを遂げたいだけ遂げたので、正社員であることが落ち着きそのものである感じで暮らしている。一度も退職しなければ、少しは昇進していたかも知れないし、業界知識に通じた専門職能が確立していたと思うが、人生で本当にやり遂げたいことは、やりたいようにはできなかっただろう。世の柵を知って生きるより、柵から免れて生きたほうが良い。
収入が多少なりとも増えたことで、1日に千円以下の買い物だった習慣が、千数百円は買うようになった。洋服を1年余り買わずにいたが、昨日綿百の細身のパンツを2本買ってみた。食事を腹八分目で収めていたものを、持てた食欲をやや超える位まで食す日を作るようになった。安定した職業と収入により、活動の源が保証強化されるので、背中を押されたように行動が進んだ。制御しているので、やりすぎることはまだない。
失われたことはある。やはり、貧しい時間は幸福が募る。おそらく、感情に正直でいるからだ。特に、悲しみを募らせる時は、生きてきた幸いや生きている感謝が、経済的なことよりも圧倒的に本質的であると知るので、単純な幸福の中を生きられるのだ。さらに、貧しさによって、買えることの有難みや、知人と会えて話せる幸運も、大いに感じるものだから、幸福は募る一方なのである。では、どうして安定するとそれが薄くなるのか。しっかりする、という言葉が理由になる。
感情を持つとは、何かに依存している状態である。普通ではとんでもないことだから感情を持つのだ。つまり、普通と比べて素晴らしかったり珍しいことであるから、特別に感情を持つのだ。だから、普通を生きられるようになれば、比べる基準の下で生きられるので、感情を特に持たなくなるのである。しかし、代わりに発見した身振りがある。余裕である。周りを見ずとも感じて気を配り、他者を優先し、何かと譲るようになった。自主的でない行いである。自主的に動いてばかりだった貧しい時代が、何か恥ずかしいようで懐かしくなる。
コメントを残す