#24

人工のものは、自然のものより、面白くならない。人が自然に克てないのは、人は自然にこそ面白さを感じ続けるからである。作り出されたものは、すでに達成されたもの、と言い換えられる。未知で未達成で課題度が大きいからこそ、人は惹きつけられるのである。高層ビルは確かに巨大壮大で、建造した技術には賛嘆の念を禁じ得ないが、地上に植っている並木の色付きや枝ぶりには、人知の到底及ばない興味を常に掻き立てられる。つまり、高層ビルが完敗している。

この原理は広く応用できる。顔を簡単に整形してしまうより、生まれ持った顔に脚色を加えたほうが、自然で面白いし、幾度も面白くできる。整形された顔は、どこか物寂しく、顔というより人形の類のようであり、完成だとしても寡黙で陰気なものである。整形したと分かれば、顔にさよならした理由を想像してしまい、以前から会っていた人であれば、どこか裏切られたような、物足りなさを覚えるものである。顔は人の視線が入り組んで刺さるファサードなので、自分の管理下に置けるものでない。

化粧や洋服は、その自分に突き刺さる具合を緩和ないし調整する技法であるが、尤も、視線の裏の価値観を予見することは困難だからこそ、社会的、歴史的、文化的価値観を文脈として知らなければ、過剰に自分に刺さるだけになるので、人からの視線を制御することもできようがない。流行に乗ることは最も簡単な制御術であり、そこから離れるには、教養が間違いなく要る。お洒落な人や服飾家に知的な人が多いのはこのような理由だと思われる。

視線の恐怖は教養で緩和できる。自分が埋まる箱袋のような服を見つけると、だいぶ外を歩けるようになれる。この散歩を悠々自適に行うための骨は、視線の背景を知悉することである。年配の視線なら、戦後史、高度成長で形成された価値観、人間は30代までの影響が消えにくいこと、街を歩いて集めた食や行動の習慣に関する統計的見解、などである。視線と闘うには、見る人をよく見ることだ。見てくる人だけでなく、視界に見える人をできるだけ多く見て、傾向を掴むことだ。そうすれば、自分が現在の社会の中でどういった位置に立っているかわかってくるから、そこからどのように立てるか、明日の可能性を幾通りも考えつけるだろう。

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