友人を少なくしているが、孤独ではまるでない。親友は一人、2か月に1度蕎麦を喰らいに出かける。一回り年上だが、同じような性質を持つ方に巡り合えた。私から、友人になってくれませんか、と掛けたら快諾してくださってから、もうすぐ11年になる。これほど長く続く関係は、他に経験がまだ無い。毎日のように会っていては、当たり前になり、有り難くなくなってしまう。過剰に遊びに出掛けていても、楽しくさせないといけないという圧力になって疲れてしまう。第一、感情が混じる関係だと、離れた時に寂しくなってしまうだろう。
スマホで通知は切っているので、赤い丸数字が付くこともあまりない。メッセージを呉れるのは2日に1人くらいで、通常時の画面は静けさを保っている。だから、人に振り回されはしないし、自分から滅多に送らないので迷惑させることもない。つまり、この情報環境がある時代にいても、ほぼ一人で過ごす生活を設計することに成功している。近代は個人の時代で、個人で過ごすのが結局最も快適である、との結論を、高校生の時に家族を見てすでに得ていたから、40歳のいま、知り合いを少なくしていることが、むしろ誇らしい。自由である。
書斎ではぼうっとすることが多く、ラジオを聴いて豆菓子を食べているか、本とものすごく間近に格闘しつつ知的感動を覚えるためだけに時間を費っている。大変な贅沢であると思う。我が家は子供を持つ家庭ではないので、街で子育てしている夫妻を見かけると低頭したくなるが、子供を持ちたくて持ったのだから幸福なのだろうと考えて過ぎることにしている。子を独り立ちまで育てた夫婦には、人間の格の高さゆえ低頭するが、これは今後も年齢に関係しないだろう。ちなみに、不本意に産んだ子の親は見ればわかる。
産み育ててくれた両親は、私が幸せならそれでいいと言ってくれ、結婚したのは最大の親孝行になるとも言ってくれた。つまり、私がこのように好きに放楽していても、両親はそれでいいと言ってくれている。何という愛だろう。両親の脛を齧らずに、寄生しないべく、経済的に独立しようと頑張ってきた努力も知ってくれてのことだとは思う。社会でうまく立ち回れている自信はまだ無いが、両親に恩を返せたと思われることは誇りにしたいと思う。もし両親が去ったら、また新しい状況がやってくる。自信を確として持ち、社会に行動で働きかけていく状況が。
コメントを残す