話すことに難儀した時期が続いた。十代から今の昨日まで、言葉を聞いては返すことや、話題を思い浮かべて話を展開することができにくく、才能どころか能力がまるでないと思っていた。書くことは、文章の体裁はとれていないにせよ、なんとかできたため、自ら言語野の外科手術をするように、思考を活動させてストレスを下げてきた。ここにきて、コーヒーのカフェインによるものと思うが、言葉がすらすらと出てくるようになり、思考も発話と地続きになり、自分も人間であるらしいことがわかるようになった。
なにか定義や証明のような性格が言葉にはあると思い込んでいた。それはそういう性質も加えてよいのだが、それくらいのことに過ぎなくて、定義を癒しにも使ってよいし、証明をユーモアに使ってよいと知ったため、思考が自由になったように感じられる。文法に則った話し方をしなくてはと思い込む節もあり、外国に来た日本人のようなていで日本語話者と話そうと身構えていたところがあった。言葉が出てこないうえに、受け答えもできにくく、そもそも文脈のわからない話にどう入っていけばよいか皆目見当がつかず、話されている最中も押し黙ることが多かった。
話すことに難儀しない人もいて、会話を楽しむ才能が生まれつき備わっているようで、街を歩いている子供のうち、親と自分から会話するような子がそうなのだと思う。そんな子供でも会話について悩むこともあろうかとは思うが、会話に難儀するほどにはならないと思う、数日悩めば消えてしまうだろう。だから、何十年も話すことに難儀した経験ができたということは、会話の芸術を極めた偉業のようなことではないかと秘かに思っている。
なんでも、長く難儀するのは才能のゆえである。最近は特に、そう考えるようになった。簡単な支援の手さえ役に立たないと振りほどくような豪胆さのある人や、支援あってのうえで目指すところまで努力するような人が、障がいまわりで多くいることを私は知っている。生まれ持った才能のなかには努力しても伸びないものがあると思われているが、それは誤解だと私は思う。自分の縄目が解けたら、才能も開花する。持って生まれたすべてが開放される。そこまでたどり着くためなら、どんな難儀さも努力も報われるというものである。その達成に応じて、あらゆる環境はついてくる。完全な自由のために。
コメントを残す