知識 #1

静かに知を探究したいと思っている。社会を変えようとしても変わるのは一隅で、悪事はすぐ伝わるけれど、良いニュースは広く伝わりにくい。研究では期待したほど対価が得られないので、このネットワーク文明でも孤立しがちだ。科学も行き届いてしまっていて、文明を支える基礎知識も、高等教育で平易に教えられるまでになった。良い教材も容易に手に入る。つまり、知識で人は動かなくなった。

しかし私は思うのだ、知識を求めることの価値は減っていないと。知識を得ていくことは、年を重ねる中での努めだと。年齢のわりに無知を生きるのは情けないと思う。後半生は何よりも教養で楽しみたい。かといって私はまだ何かを具体的に詳しく知らない。望むところまで知ることは、いつまでもないだろう。だから、知識をくれる本や図書館、一部のインターネットは価値が減らない。そんなわけで、政治で社会を変えるより、静かな書斎で興味を広げるほうに、私は自然と移っていく。

はたと思うのだ、知識で社会を変えられた時代は、情報通信文明以前のことだったと。すぐ共有拡散されるこの時代においては、知識は通り過ぎるばかりで、それでいて皆賢くなる。普通に知られていないはずの知識を銘々で持っている。知識とは自然や世界の論理をどこかから引き出したものなので、考えていくと一つの知識から多くを引き出せる。知識で社会が変わった時代とは、経済の知識が社会体制と分かちがたかった頃の話、経済構造の知識を探求するためでなかった時代の話だ。

いま、もし知識を求める目的を教えるとすれば、社会や自分を変えるためよりも、楽に簡単により良く暮らすための知恵だとして良いと私は思う。科学は生活の知恵だからだ。例えば、投資を続ければ投資家が皆で富むので、自分が投資した財産も増えていく、だから売らずに握っていられる。あるいは、毎日外食では糖分塩分脂肪分が偏りがちだから、週に何日かは素餐で過ごすと、内臓への負担が減り、体臭や疲労も減る。このように、深い知識は行動を納得させる。私は静かに過ごそう。静かに知を広げ、これからもわかりやすく語らっていこう。

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