カテゴリー: 日本

  • 日本#2

    日本で今話題なのは、憲法と移民の件だ。大雑把に分けるとすると、徹底護憲し移民を受け入れる側と、自由に議論して改憲し移民は受け入れない、の両側に分かれるだろう。前者は日本を平和国家と特徴づけて世界に表し出す考え方、後者は世界標準に合わせて国家を無個性にしていく方向である。では、前者の弱点から見ていきたい。

    憲法により戦力を持たないのであるから、米国には徹底して安全を保障してもらいたい。もし安保を軽んじるのであれば、軍費用が重すぎるゆえであろうから、災害時に米国の農畜産物を優先して買い付け、貿易摩擦を軽減する交渉をつけておくことは考えられる。また、米軍基地を減らす案は地政学的な平和が結ばれるにつれ段階的になされてもおかしくはない。危ういのは、米国が国際的にへまをして、間接的に、どこかの国が日本を攻撃した場合である。そんな事態は起こらないと信じているが。もう一つ、日本が全世界的に攻撃された場合である。様相としては、日米対世界、という構図である。これは何としても避けなくてはならない。

    そもそも戦争という手法は、侵略を先にやってしまうという、土足で敷地に入るも何も失礼千万な方法である。国土を併合したいのなら、本来は交渉から入るべきだ。武器は併合後、土地を真っ新にするためだけに使用する、工事用の道具だ。人を殺すためでもない。もし、交渉で応じないなら、その時ではなかったのだ。時間をかけて十分待ってから、解決の時刻を待つべきだ。国土の変更はそう容易な話ではないとまずは十分に観念しなくてはならない。

    さて、改憲し、自衛軍と戦力を持つこととするなら、日本のどこかに武器を格納する倉庫を置かなくてはならない。おそらく地下であろう、他国に知られてはまずいのだから。ということは、地元の人にも守秘義務がかけられ、漏らしたら諜報容疑がかかる可能性もある。思うに、日本の若い自衛隊員が軍人として善戦できようもないと思うのだが。それならば、日本を平和国家として売り出し、世界から移民を受け入れ、共生する方が望ましいのではないか。ちなみに、護憲して移民を受け入れないとすると、世界から希望者が大量に断られるので、日本だけが世界中から攻撃される恐れがある。そうでなければ、世界各国の法制に対し、平和な土地の拡張を思想的に売り出すしかない。護憲と移民はセットで考えなくてはならない。

  • 日本#1

    近現代とは、キリスト教のための時代であり、というのもその始源からして聖書の論理を社会に実装したものである。ただし、聖書からそのごく一部を引き出したにすぎない。だから、近現代を更新しようと思うなら、聖書の他の部分から論理を引き出し、それを追加しなくてはならない。実際、この方法はすでに採られており、社会を多く豊かにした。

    須く、キリスト者には住みよい時代であるが、そうでない者にとってはなんのために生きているのかわからないような社会であろう。神も主も見えないのだから。それで神格化したものを求めようとしがちになる。それらは偶像であるから、それらは邪教である。そこで求めがちだったものが、資産であった。

    富が三十年あまり盛り上がらなかったと言われる日本のこの三十年である。なんのために働いているかさえわからなくなっており、深刻にならないのは、日本の人は学ぶからである。特に動画コンテンツは、無料であることも相俟って多く視聴され、また、買った物を捨てず手入れしてずっと使う文化も普通になった。物が売れない。

    この近現代を良く生きる方法は、一つしかない。キリスト教信仰を持つことだ。全てそこから始まる。だが、信仰を持つに至らない人がほとんどなのだ。であれば、日本人がより豊かに生活できるための論理を聖書から見つけてやろう。それが義理温情というものであろうか。これなら私にもできる気がする。

  • はじめに

    読書というものを、分け隔てなくしてはいけない。そう思い直したのは、著者の性質を分別しなくては、いくら読んでも世界が整理されないためだ。私は、どうしてそう言ったのか、を日常会話でも弥に気にするものだから、読書しても長くは読めず、とある言い回しで支っかえては歩いて考えまわる。そうやって読書してきた気がする。

    知りたいという思いは然程無く、専門的にやろうと追い従く野心もない、庶々民然の読者である。深く追究しない代わりに、理解のまともさには頭心を砕いて読む人である。特徴を挙げるとすれば、

    1.国名か著者名で記事を切り出し、#で書いていく
    2.専門的な用語は日常日本語で翻案して書いてしまう
    3.海外に旅行はせず、国際色の豊かな近所のお店には行く

    主に、支っかえた表現に立ち止まって考えたことを書く部録となる。冷笑や卑屈とは無縁であることは、少し読めば理解されよう。もっと知ろうとの思いの代わりに、見たところを広げようとの思いが与えられたのは、私が平和を作る人、すなわちイエスキリストを主とする信仰に生きているからである。本当ならば聖書で十分満足すべきなので、読書は余計の余興なのだが、世知や世間話を聞き分けるために、見聞を研いでおこうとするのは愚かではない。ただし、入り込みすぎるものでない。信仰が十分なのだから。

    取り挙げる本のわりに、軽い読み物となると予想される。国際協調の後の情報混淆の後の健康生存的、そんな時代に命を享けて良かったのかも知れない。そんな部録になると思う。