ドイツの合理性は、日本と違う。先日マンションで水道管立入の際に清掃員に聞いたところでは、ホースの先端に水流が四方へ飛ぶ金具を取り付けたのはケルヒャー社の発明らしい。これを管に通すだけで管面内の汚れが流れ落ちる。環境的な発明だと感じ入った。と今もグリューワインを30mLほど飲んだ後にこの記事を書こうと思ったのだが、赤ワインを甘くして桂皮を入れようと思ったのが合理的で、せっかくなら常用品で健康になろうという考えが根底にあるのだろうか。
私にはどんな本を読んだ人か嗅ぎ分ける才覚があり、大概当たる。特に当たるのがドイツ的な哲学書を読んだ人だ。百発百中である。ただ、これは私の特技でもなく、そう思い当たる人は多いように思う。やはりドイツの普遍理性主張は個性的に映る。これは島国日本だからばかりでなく、大陸が接している国においてはドイツ的平和協調論は尊敬の目を向けられるのだが、島嶼国においては早々に離脱を望まれるものに過ぎない傾向があると感じる。何か空疎な論だろくらいに。
ただ、ドイツ製品の合理性には無駄がないことは承知のことで、日本の製品にはない特徴として、形態も色彩も耐久性も、ドイツ的なものの方が徹底して合理的である。日本はこれらで凝ってしまう。だから愛される面はあろう。ドイツが世界一のGDP国になったことは自明と思ってよく、なぜなら労働と休息についても合理的で、尚且つキリスト教国であるばかりでなく、東西分割の件や、最低の代名詞:ヒトラーの件の反省もある。背負うには厳しい歴史だと思う。
新しい首相が痩せ細った人だった印象がある。論理が先行した体型である。丸縁眼鏡が似合っていた。私もまとまったお金を手に、今度小さな丸眼鏡を新調するつもりだ。西田や九鬼のようなデザインだ。一度店舗には行って確認済である。どうしても日本には合理性が馴染まない気がする。混沌、ごた混ぜ、区別無しが、心地よい。ただ、世界の事情で多様性を分ける議論が喧しい。しかし、日本では分ける議論が自然と起こらない。合理性が排斥される。それで良いと心底思う。日本は特殊な考え方の国であっていい。
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