人柱の話

私が人を避けてしまうのは、単に私が人を疲れさせてしまうからだ。私のせいである。私がひどく物事に気づいてしまい、活用されていないものを活用する案を思いつき、より有効な使い方を考えついてしまうからなのだ。それらを一つ一つ稟議していては、私のために時間を使ってしまうようなものなので、それでも私が活用案を考えつくものだから、皆、疲れ果ててしまうらしい。

もう少し脳の機能が押し黙ってくれたら良いのにと思う。自分の書斎だけ自分の自由にして、会社や組織では評価されたいと思わなければよい。しかしそれでも資源が無駄になっているとどうしても頭が動いてしまう。これをこうしたら活用できる、と。そんなことばかり考えてきたから、自分の案を検討する癖がつき、どんなに素晴らしい案も実行されないでいる価値があるとも思う。

案を買いたい人は、ひと昔と比べてだいぶ減ったのではないか。今や生成知能に聞けば妥当な案をいくらでも出してくれる。人間が考えるより一般的で気持ちの良い会話相手でもあるのだし、私など出るまでもない。こうして脳が持つ活用の思いとは裏腹に、案は捨てられていく。書き留めもされないのは寂しいので、自分でこうして部録にまとめておくのである。

私は一人で楽しめる人間として育ってきたので、これからもそうである。娯楽にお金を払ったことない。本は増えるが面倒な本は読んでいない。労働に心血注ぐ人がいるから社会生活が成り立っていることを思う。私も数学の件では人柱になれたと思う。活動とは討ち死にである。私もまた、歴史における無名の小石の一つになれた。川のように流れる世で止まり、じっと見つめる存在になった。

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