私が広告に関心を持つのは、その宣伝の仕方だけであり、内容は見ていない。広告に影響されて買ったもので、今も持ち続けているものがないからだ。これは深く不思議なことである。宣伝に乗って買ったものは、大事にされない。単純に考えても、買う時に興奮の最高潮に達したものは、その後大切にされない。つまりこれは恋に似ている。ずっと持っているからという理由で愛したものに生活は囲まれるからである。
広告が無効であることを知ると、広告の目的を考えるだろう。店名や企業名だけを知ってもらう程度の効果しかないと諦めなくてはならない。つまり、クリックやタップで買えるようにした広告では、作ったものが大切に扱われないので、利益至上でなければむしろ広告は打たないだろう。偶然出会った人に良い人がいないように、見ず知らずのものと出会ってもらうには、必然の線がいるのである。
旅先で、街に惹かれる店があった。本棚を探っていたら、隣に関心のある書影を見つけた。辞書を引くと、同じページに類語が芋づるで載っていた。こういった必然から、人は興味を抱く。検索した語に関連する広告の方が、データから計算されたおすすめよりも、満足した行動に結びつきやすい。おすすめで買ったもので長く持てたものがいくつあるか数えてみてほしい。インフルエンサーのお気に入りを買ったところで、自分のものになっているか、振り返ってほしい。
生活を見回してみると、身の回りにあるもので自分のものになっていないものが、意外と多くある。なぜ買ったのかさえわからないもの、どんなものなのか本当はよく知らないもの、使い方の記憶がなくなったもの。部屋にあるもの全てを持っているとは限らないのだ。かといって捨てる判断をするのも惜しい。買う判断をしたものばかりだからだ。少なくとも、自分を知ることには役立つ。なぜこれを買ったのだ自分、と。消費行動とは不思議なもので、自分のことなのに全てを把握できそうにない。
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