私がここに生活の科学として書くことは、自由権を「ほどほどに」使おう、ということに集約できると思う。生命、自由、幸福の追求が認められているからとはいえ、他人のそれらを妨げてはならないのだから、資源の点で控えめにものを使い、資本の点で過度に儲けず、増やすなら少しずつ増やす、という基準を充てると幸福になりやすい、と述べたいと思っている。過度に関わったり、過度に力をつけたり、過度に権利を行使するのも、考えものだ、ということだ。
自由は、無論、素晴らしい。他人に迷惑をかけない限り何をしても良いことは、人類の存続と繁栄に向けた至高の原理として見て良いと思う。ただ、どこからが迷惑で、どの世代に迷惑で、何をしたために迷惑か、など、迷惑の範囲が常に話題にされる。それで個人は面倒になって孤独に時間を過ごすことを求めたり、欲を消して控えめに行動したり、行動自体を控えたりする。これらは良いことだと思う。全体としてなだらかに推移することに貢献するからだ。
では、自由はなんのために認められたものか。それは戦争の歴史や租税や搾取産業の話を聞けばすぐにわかり、現代は大きく改善された。これは市民運動の偉大な成果である。こうして自由は拡大した。だが、拡大し天井がなくなると、人は制約を求める。個人は自由が無限にあると認められないのである。無限の自由の下では何もしないのである。この何もしないための自由が自由の本質であり、大変良いことである。過剰な消費と生産を防ぎつつ、相応の幸福や満足を存分に享受できるからだ。
自由の本態は、何もしない時間が大部分で、何かしようと考えたり、しないと判断したり、するもしないとも限らない思念で心を満たすことに、おおかたの時間を費やす権利こそが、自由である。つまり、制約を作ることで行動に移れる。行動するには制約を設けなくてはならない。これが近現代の社会生活の隠れた規則であり、何かを成し遂げない自由は、制約を設けない自由でもある。このように、何も成し遂げないで生きる自由を保障されているゆえ、何かを成した人の利益を分配する義務をわざわざ果たそうと考える人は少なく出現するのである。自由は弱者のためなのだ。
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