活動に対しては、当然ながら休む自由がある。整理する自由と言っても良い。得たものをまとめ、後で使いやすくする行動である。ことによっては忘れ、ものによっては捨て、時によってはやめることも選択して良い。時代が停滞せず流動的な今は、もはや一つの場所にとどまる必要は無くなったので、希望すれば移って始められ、暮らし直せる時代である。続けることも慣性なのか困難でなく、時が経つにつれ困難さは償却されて楽になる。だから、始めるにも続けるのも難がなくなった。
そこで需給の面から、サービスを断続的にするという案が持ち上がる。常にサービスしていなくて文句がない社会にするという案である。店員がいない時間や、製造元から製品が出荷されない日や、閉店日を平日に設けることである。サービスを常に提供するためにシフト制が組まれている。誰かが充てがわれれば、サービスを24時間提供できるという考えである。労働者の2割程度が、24時間サービスを提供する職業で仕事しており、多くはシフト制である。休みなく働くのは過酷だが、高い専門性が加わってくると属人的になり休むことが許されなくなってしまいがちである。
自分で活動の種類を決められるようになっている。希望する仕事に就き、希望するだけ働いている人も少なくない。その分、生計は小規模にしか実現しないが、小さな経済で充分に暮らすことが可能になっている。時間を使うことが労働の動機になっており、休息の方法にもなっている。時間の主人を勤務先と自分で交替させることが日常であり、いくらか設計できるものだ。人生の操縦桿を自分が握れることは、生活を楽しく、そして恵ませる。急峻な革命や、尊大な儲けを求めなくても、幸福を身近にしつつ暮らせるのである。
近代が求めてきたことが快適さだったと判明したので、快適であり続ければ近代には完成宣告が言い渡されるだろう。活動しすぎる現代人には、持続可能性が守るべき目標になっている。ほどほどにしておく、さほど求めないでおく、望みは後に取っておく。そういった未来管理を、個人が全体を見据えて立てていくことこそ、現代らしい目標であるということだ。私は、健康、長寿、卓越を標榜しているので、活動を長期で捉えられる上に、継続も容易である。休むことも達成に必要であると納得できるからである。
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