私の読者が、私をどんな人だと思うか、私は聞いて見たいと思う。というのは、私は自分がどんな人として見聞きされているか、よく知らないからだ。ただ、あまり興味はない。なぜなら、私は自分がどんな生き方をした人か、自分では誰より正確にわかっているから、誰かが私より正しく私を理解していることはありえない、と正しく知っているからだ。もし誰かが私の言動を見聞きして、彼はこんな人だ、と断じられれば、私にはそうでなくなる自由がある。故に、私に関して抱いた印象を私は否まない。印象を持つ自由はあると思うからだ。
感想を持たないようにしている。感想や印象を語ると、断定されたと信じる人が異様に多いからだ。おそらく、自分をよく知っている人がそんな反応をとる。ならば誰にも自分を語らなければ良いし、誰のことも考えなければ良い。自分の中の宝物は簡単に人に見せてはならないはずではなかったか。だが、やはり人は感想を語るし、印象を持つ。虚構の世界を好むのは、感想や印象を直接的に持たなくて済むから、というのが大きいと私は思うのだが、私は虚構が嫌いだ。
仮説と検証を繰り返して、人間その人を知りたい、という気持ちは、山々にしなくてはならないが絶つことができない。どうせ私の読みが浅いか、私の頭が表面的か、理解が不足しているに相場は決まっている。個人を理解するなどできそうもない。私のことでさえ、新発見が年に何十回と起こるのだから、私は常に私の中に謎を、私の周りに居る多くの謎と共に、自然環境の謎だらけの中で暮らしているのである。
最近は、人から断定されるのも快い。断定してくれた、と思う。そうすれば、私は明日からそうでない私として暮らせるから。断定に従う必要なんてないのだ。その人の中の断定的な印象を、明日からとても良い意味で裏切れるのだから。楽しいではないか。どうせその人は断定をまたしてくる、私はそれを裏切る言動を取る。そしていつしか彼は私に敬意を持つ、それが私の経験則である。人間の自由、それは断定や差別や格差の言論に従わず、それらの裏をかき乗り越え変化させるところに存する。いくら科学的解明が発展しようとも、人間は多様に成長するのだ。
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