#16

生活を自分から語る場合と、生活を恥ずかしいものと思って語らない場合とがあるのは、生活が体型に出るからでもあろう。自分で生活を語る人の体型は人に見せても恥ずかしくない。反対に、生活を隠そうとばかり考えて生活している人の体型は、まるで投影したように、人に見せられないものだろう。社会の中で一人で生きていない以上、体型は人に見せるものである。よく見せる必要もないが、見られないようにする工夫もできるから、服は体型に合わせて求められる。

人体には、魅力的な部分がある。人により異なるとはいえ、魅力を感じる輪郭は普遍性が高いと思われる。例えば、筋肉や局部、ないしは胸部や臀部や大腿部は、性別にもよると思われるが、視覚的な魅力があるだろう。重要なのは、街を歩くときには、それらの輪郭を隠すことである。人体の魅力的な輪郭を隠すことで、生活ないし生活感を隠すことができる。やはり、人の生活を覗かないほうが、自分の生活を顧みずに済むので、心身が疲れにくいのだろう。

もし生活を世界に終日一般公開し続けると考えてみる。四六時中、誰かに見られているとする。一体、発狂しない人はいるだろうか。一人でいられるから、疲れが解消でき、思考を深められ、快適さを確保できる。その時間は恥ずかしいものである。一人の時間を人に語ることは、あまりしないものだろう。私的な話を聞きたい人もあまりいないものだし、話すには親密さが必要だと思われているからだろう。つまり、自分から語るにしても聞く人が少なく、隠すにしても誰も聞かずそのままにするのである。

この共通の了解があるから、社会は静穏を保っていると言える。しかし、体型の自由がある。生活は崩れてしまいうる。だが通常は誰も言わないのである。生活は恥ずかしいものなのに、生活感が出たまま外を歩いてしまえる。それを見て自分の恥ずかしい生活を反省させられて疲れてしまう。だが誰も注意しないし文句も言わないのである。近代は個人を自由にする代わりに、品位や生活も個人の問題とした。誰も注意を滅多に言わない。言えるほど立派に生活していないと思うものだからである。私は街を歩く時、太り過ぎても痩せ過ぎてもいない人を、目立たぬように注目している。

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