趣味を持とうと思えば、意外と簡単に持てる。誘いに乗れば楽しいし、界隈で見つけたイベントに申し込むのも難しくない。行きたい場所はよく考えなくても両手で数えきれないほどあるだろうし、モールまで買い物に行けば実際に買わなくても楽しい。これは都会に限らない。どのような街に住んでいても、市街に出れば、検索すれば、メッセージを送れば、人や物に出会う。退屈に倦ねる人はかなり少ないと思われる。このことは、都市が誕生した古代からそうだったろう。退屈できたのは貴族だけであり、退屈の極みから文化が生まれたのだ。
こういうわけで、趣味を持つことはたやすくなったのに、趣味を作り出すことは難しくなった。退屈を持ちにくくなったからである。退屈を趣味で埋めることが簡単になった分だけ、退屈に過ごす知恵が失われた。文化を知悉していることは、楽しく過ごせる手段をたくさん知っていることだと換言できる。それゆえ、新しい文化を創り出す人物は、文化に通じていないことがしばしばある。現状に不十分さを感じ切っているから、退屈なのである。つまり、文化にとって、退屈を感じられる性質は、間違いなく、才能である。
趣味には、趣味の内容と趣味の性質に分けて考えられる。内容は、具体的な領域で、釣り、鉄道、推し活、鑑賞など、多岐にわたる。一方の性質は、趣味の風格を表す。例えば、コンサートに行き、会場で温和に過ごすことを弁えない人や、演奏中私語が聞こえないとでも思って静かにしない人は、趣味に欠けている。また、牧歌的な趣味はそれで宜しいが、各様の趣味を持つ人に対していつも牧歌的に接する人も、趣味の多様性に理解が乏しい点で、趣味に欠ける。趣味の世界は広いのである。
人により好きなものには意外なものもあり、独特な楽しみとしてあらわれる。自分本来の楽しみは同じものを見ても独自の楽しみ方が出てきて、それを知ることは面白い。私にも独特な趣味がある。多分かなり多いほうだと思う。漢和辞典を拾い読むこと、雲や葉や壁の模様を眺めること、自分で振った詞を口ずさむこと、気象通報をただ聞くこと、街を歩く人の出立を見物すること、とてもある。自分の好みを掘り下げたところに、趣味は発見される。退屈の贈り物である。
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