私が生成知能に期待するのは、創造するために絶望する必要がない世界になるということである。近代の創造力には、絶望が必須であったことは、数多くの聖職者、学者研究者、芸術家が知っている。一度も絶望したこともない人は稀であり、誰よりも深く絶望した人こそ最も大きな成果を生み出せる、という創造性の力学を、知っていても実践しなかった人々は昔から多くいた。賢明な人々である。そのぶん、学芸に心身人生を賭した人には、尊崇の念を抱いて接してきた。
生成知能に代わられない創造性には、相変わらず深い絶望が必要である。泡沫経済の崩壊と情報通信社会の普及展開とともに相俟って、深い絶望は、特に日本や韓国で、多くの創造性豊かな人々を自死に追いやった。脳を調整する薬物は大いに売れ、副作用はあれど、多くの人々を救った。脳精神医学の知見も人心を緩和した。単なる神経伝達物質の異常であると判明したことは、近代が興った時の、あの絶望から回復する教理の弁証法的複雑さを無かったことにできた。
こうして現代は、創造性を第一原理とするようになったことで、信仰から離れた。信仰を持つ人が少なくなり、神を理解しているから神に仕える人は、かなり稀になった。教会に通う人で分別のある人は、神に仕える人でなく、神を求める人がほとんどなのではないか。理知的に求めていけば、いずれ神を知り、神に仕えることができる。私の経験上、そうである。ただ、やはり、私の場合、絶望の根絶が必要であった。深く悔い改め切ることで、絶望から回復したのだから。
一度絶望したら終わり、なのではない。絶望こそ始まりである。創造性はその過程の付随物である。つまり、絶望を経て信仰を持つまでの過程で、創造性は身につき、神に仕えて人を愛すことができるようになる。自分の力では絶望することしかできそうもない。有名人で自死してしまった人が何人も報道されたが、彼らにわかっていなかったことは、絶望が偽物の証左ということではなくて、信仰に至る途上にいることを知らなかったのであった。信仰を持てれば、その当時以上に、誰にも愛され誰をも愛す性格になれただろうに、日本には信仰が弱すぎる。
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