#28

絶望からの回復が起こることは奇跡であった。福音書にも、絶望の底にいた者が、イエスのことばによって回復し、絶望が根絶し、神と人を愛すようになった、と書かれた話がいくつかある。だが、近代の知識人は、絶望の中にある人々を軽蔑すべき連中としか見做さなかった。パスカルでさえそうであった。パスカルの場合は、回心前の自分が似たような状況にあったため、自分を軽蔑するためにそう書いたともとれるので、私は良心からそうとることにしている。

パスカルはルイ14世の言動をみて、絶望の淵にある王をくだらない人間とみたのであろう。直しようのない人間だと。しかし、神に不可能なことはないように、少し経ってキルケゴールが絶望に関する完全な分析をものし、絶望が肯定された。信仰に至る過程として理解されたのである。人間が自力でできることは絶望だけだというのである。自力で信仰を持つことはできないというのである。謙遜敬虔な信仰者になる希望を与えるために、どれほど資したことだろう。

現代は創造性を持つことが標準的とされるほどにまでもてはやされている。普通のことであるというほどだ。しかし、本来、ものを考えることや、それ以前に、意見を持つことでさえ、公平で広い知見を持つことも含め、努力の裏には絶望の程度が隠れている。まっとうに努力して身につけた高い知的能力の過程では、例えば魂の不滅という重要な問題に対し、軽蔑嘲笑するかのような態度をとったことのない人のほうがおそらく珍しいのではないか。

信仰者は教会で、とこしえのいのちを信じます、と告白し、会衆と心を一つにして、そのとおり、と言って神に打ち明ける。もしそう信じていないか知らないままに言っているのであれば、後で絶望の仕打ちに襲われる。その時は悔い改めればよい。近代は絶望を克服しきれていなかった。現代になって、絶望が信仰への過程であると理解され、同時に自分の無力を理解し、無策生活が最も自然であることが学ばれた。自分からなにもしようとしなくても、必要なものは神が与えてくださる。これを信じる人は、この不信仰の現代にあっても幸せだろう。

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