風味(フレーバー)に目覚めたのは、帰路の通勤電車内で、長髪の若い男性が、満員に近かったため、私の嗅覚を刺激したことがきっかけだった。妙に臭いのだ。経験上、硫黄系で年季が入っている。やはり、記憶に残るもので、視覚的にもふけが肩や髪間に散らばっていたので、私は帰宅し、自戒の念からいつもより丁寧に頭皮や背中を石鹸で洗った。自分がくさいことほど嫌なことはないからだ。
通り過ぎて無臭の人には敬意を感じるのは、私だけではないだろう。無臭とは難しいことである、と私はどこか感じていて、嗅覚の仕組みに通じているわけではないけれども、若い女子高生はラクトンの香りが、年老いた女性からも細胞液からくるらしい匂いがするが、いずれも嫌でなくむしろ芳香といえる香りがする。ところが、中年の臭さ、男性は男性の、女性も女性特有の、臭さは、食生活の結果なので、いやでも生活感が出てしまい、私は嫌で自分を警戒してしまう。身体を毎晩石鹸で洗っている。洗い過ぎても引き立ってしまうので、鹸膜を張って数秒間置く程度しか洗わない。洗濯機に入れる前に、着た服をかぐのだが、いつも悪い匂いはしないことを確認している。私は自分の着た服の香りは好きだ。いい匂いだと思う。弱くウッディで、若干スモーキーで、優しくオイリーな香りで、どれも強くない、淡く混ぜ合わされている。だから、私の体臭を嫌いでない人は少なくない気もしている。少なくとも、私と香りの趣味はいくぶんか、合うだろう。
一昨日、職場でコーヒーを飲んだ。実に6年半ぶりだ。当時は眠れなくなったため、飲まないことに決めたのだが、症状の安定した今改めて飲んでみると、脳が冴え渡り、夜には熟睡できたので、コーヒーに目覚めてしまった。それと同時に風味にも興味が覚醒したのである。妻に頼み込んで古いコーヒー豆100gを貰い受け、ハンドル式でコーヒー豆を挽く機械を使ってコーヒーを豆から淹れて良いことになった。今日は昼休みにカルディでもクリスマスのコーヒーを買い求め、こくが強めで酸味の少ない風味に舌が虜になってしまった。同僚にドリップコーヒーの淹れ方の手解きを受け、明日は蒸らしからその通りにするつもり。そして、華の金曜にはコーヒー豆を挽いて淹れ、夜更かしの友とするのだ。なんと魅惑的だろう。
こうして風味について書いていると、料理でも風味を出してみたい想いに駆られる。フレーバーマトリックスという本を持っていて、自炊したのをブラックフライデーで買ったkindleに早速入れ、実は今読んでいる。風味を13種類に分け、食材別にどれほど合うか、ナイチンゲール式の円グラフにまとめた本。オリーブはレモンと合うそうだが、私の記憶と合う。どのくらい合うか図で一目でわかるので、食材を合わせるとき選ぶ基準になる。確かに西洋の料理は合わせるだけのものが多く、日本の和食のように過程に工夫を入れがちでもないから、合わせる相手を選ぶことが重要なのが納得できる。そして、和食の知らない風味がスーパーで調達できる食材で仰山隠れていることに、わくわくを覚えている。それもそのはず、今日はコーヒーを2杯も飲んだ生まれて初めての日なのだ。頭が冴え渡っている。夜22時を廻った。少し眠くなった。1杯飲んだ昨日同様、よく眠れるだろう。コーヒー的文体というのがあると思っているが、今日のはその風味が出たように思う。食事が豊かな人の文章は、特に随筆で個性が出ていると思うが、私も色々な料理で風味を楽しむうち、円やかさが加わった文体になれるだろうか、楽しみの領域が増えた。嬉しい。
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