私の専門は、と自分に問うと、何もない、と思う。私と同じ学問歴を持つ人は、広く探っても、おそらくいないからである。建築美術の予備校に通い、図書館情報学の考え方を修めつつ遺伝情報の統計論で学士をとり、神経科学を独学しながら有機合成化学で修士を認められ、流体数理で博士課程を合格だけはした。その後で自由に数理の基礎研究を独力で行い、10年後に複素情報理論を立て、あらゆる科学の論陣を自主的に張ってみせた。私には専門と言えるものが何もない、といつも思っていたが今も思う。職業実務では、生成WEB技術、だとは言えるので、職場や周囲の方には、人工知能とWEB開発が専門です、と言ってはいる。
基盤にあると思う考え方は、小学生で達したデータ管理の実務性、中学で勉強した文字や語彙としての言語の網羅性、高校で培った深い美的感覚、大学で修めた図書館情報学の情報整理と情報管理の思考法、興味関心が募って独自に打ち立てた神経や流体や知識の数理理論、3年喰いしばって趣味になった音楽の心、これらの総体が私の専門であって、これらの他の大抵の分野領域では、私は無知に等しい。ただ、情報を整理して管理する技能の実践を、さすがに大学でよく考えて身につけたために、情報整理の理論を深く確実に教えることができる上に、書斎を構えて実空間でも電子空間においてもよりよく整理して管理しており、すぐ引き出せる情報は人より圧倒的に多いと感じている。また、無知の領分に対しては、わかるように質問に徹して理解を得る問答法を身につけているので、労働する上で、ないしは生活上で、困ったことは長らく起きていない。常に問題が解決している状態を暮らしているので、気が向いた時に、趣味に探究に、発想と研鑽を積み上げられる。
ただし、薄く大まかにしか知らないと自覚している。知識や情報については、ほとんどの誰よりも深い知見を持っている気はするが、例として、古典力学で十分、というときの 十分だ とは思えないでいる。日常に起こる現象ならなんでも説明がついてしまうのだろうか、本当なのか。と。現実は不可解だが、決定論だ。神さまが全て決め切っているのに、私には不可解に思える事象ばかりだ。自分が死ぬ日も、雨が降る雲行きも、株価も、通行人の衣服や体型の理由も、家々のデザインの目的も、言葉遣いも、虫の居所も、はっきりとはわかりきれない。髪の毛一本、瞬間の心の思いさえも、全てあらかじめ知っている神さまが、すべて用意してくださったこの現実世界で、好奇心から偶然を求めたり、知識欲によって必然を確定させたりして、暮らすのが、静かに楽しいのも、神の恵んだ人間の性質のゆえである。
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