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理性をどこまで徹するか、との問題は、程度の差あれ、多くの人に要求して良い問題でない。理性を知らず全く効かないままでは、放埒恣縦の混沌を生きるほかなく、良い人生にはならないだろう。ある程度の数あるいは規模の問題を抱えている人には、理性を効かせることを知ることを是非ともお勧めしたい。というのも、問題の方向は確定していても、問題の答えはいくつもあり、どの場面で何に対してどの答えを適用するか、が理性の実用的な役割であるからで、また、体験の中で理性を行使していると、生活は多くの良い果実を収穫できてくる。

感覚が伸びるのは若いうち、私見では人生を折り返す40歳までである。そして、感覚を伸ばすには、理性は役立たない、というのでは理性の半分も使っていない。例えば、私が合唱を教わり大変お世話になった先生は、音楽は理性の芸術であると仰っておられた。また、物理学は、物理量を計算で結びつける学問だが、物理量は、長さも熱も時間の流れも、感覚する量である。つまり、感覚を理性で結え扱うと、感覚は抽象を飛び、どこまでも伸びていき、深く感覚するようになる。この訓練は、成人して40歳手前まで、私は行えた。より延びることもできるだろうと思われる。

私は理性を効かせすぎて、感情が無になってしばらく経つが、無は大変心地よく、心の曇りや迷いや消沈を体験しないために、生活や労働にとって大変有益であり、言語運用あるいは読書や記録を難なく行うことができる。感覚を言葉にする行為は詩作の技法に属する。一方、理性で論理的に作文する時には、机上の空想にしないために、身体運動と結ばれた発想を展開するのが覿面だ。意識の先に透明な雲のように結ばれた像が正体を現さない時、それを言語で掴むのである。その先には必ずや、求めている真理が待っている。いずれ掴む日がやってくる。そして、掴んだ真理はたった1本の麦藁であって、心の全てが満足する1本であるのだろう。ご健闘を祈っております。

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